10. 心から心へ 〜 再演をめざして


 発見された予想以上の大量の譜面の山を前にし、黒澤陽子は途方に暮れていた。
「果たしてこれらの譜面を、実際に演奏までにごぎつけるには、一体どうしたら良いのだろう・・・」というのが、彼女の率直な悩みだったのだ。
 須賀田礒太郎はもともと、横浜生まれの横浜育ち。現在横浜には「神奈川フィルハーモニー管弦楽団」というプロ・オーケストラがある。横浜にゆかりのある作曲家の作品なら、ひょっとして演奏してくれるかも知れない・・・こう思い立った黒澤であったが、その胸から一抹の不安を拭い去ることが出来ずにいた。
それは、「これらの作品が果たして、今日上演に価するだけの芸術的価値を持っているのだろうか? それに、50年も前の作品を、現代の人々が受け入れてくれるだろうか・・・」という点であった。
 
 黒澤は須賀田礒太郎の楽譜を、神奈川フィルの事務局に言付けた。
当時の神奈川フィル事務局長・鈴木省二は、その時の事をこう振り返る。

「じつは年に数度くらい、"これは傑作だからぜひ、おたくのオーケストラで演奏してほしい"なんていう依頼が舞い込むのです。でもそのほとんどが親類が書いたとか、自慢の息子の傑作、といった類いのもので、須賀田礒太郎の楽譜が最初に持ち込まれた時も、ああまたその類いか、と正直思いました。しかし、実際に交響詩「横浜」の譜面を見て驚きました。西洋音楽の情報が今日のように十分伝わっていたとは思えないあの時期に、これほどの作曲技法を収得し、自分の音楽として仕上げている・・・とても戦前の作品とは信じられませんでした」

 鈴木はさっそく須賀田の楽譜を、神奈川フィルの常任指揮者・現田茂夫に見せた。
食い入るように譜面を見つめていた現田は、開口一番こう叫んだ。

「鈴木さん、素晴らしいよ !  これはもしかしたら、とんでもない発見かも知れないよ」

 神奈川フィルは早速企画会議を開き、2002年2月9日に神奈川県立音楽堂で、須賀田の管弦楽作品のコンサートを開催することを決定した。その時の神奈川フィルハーモニー管弦楽団・演奏会企画概要には、次のように記されている。

【タイトル】
 音楽遺産発掘、須賀田礒太郎の世界 (仮称)

【主旨】
 横浜市出身で、戦後疎開先の栃木県田沼町で音楽振興に尽力した作曲家・須賀田礒太郎の肉筆楽譜が、死後47年振りに遺品から発見された。22曲の肉筆楽譜などの中には、管弦楽、室内楽、歌曲、合唱曲などの、極めて芸術性の高い作品のスコアもあり、田沼町教育委員会では、文化遺産としての保存を検討する傍ら、遺作の演奏の可能性について模索していると聞く。作品には交響詩「横浜」という大作もあり、神奈川フィルハーモニー管弦楽団には、1年前に遺族を通じて、情報の提供と協力の依頼が来た。
 当団では、須賀田氏の作品を分析、発見された作品が日本の音楽史に与える重要性について慎重に検討した。その結果、これらの作品を風化させることなく、無名の天才の音楽を再現させることは、極めて意義のある事業である、という結論に至った。
 他の作品の分析なども必要なため、演奏会は平成14年度末に実施することとし、現在その準備を行なっているが、当団としては単に作品を紹介するだけでなく、須賀田氏の人物像にも焦点を当て、横浜市や田沼町など、ゆかりのある関係箇所にもヒヤリングを行いながら、歴史に埋没した須賀田氏の生き方を探ってみたいと考えている。

 やがて、このコンサートに向け強力な援軍が現れた。まず神奈川フィルの事務局に顔を見せたのは音楽評論家の片山杜秀であった。彼は現代音楽を中心とした音楽評論でその情報収集力・分析力を高く評価されている気鋭の評論家で、日本の作曲家についても伊福部昭を中心に造詣が深い。最近では、ナクソスというCD会社が進めている60枚に及ぶ「日本管弦楽作品輯」の総合企画や、Rローム・ファンデーションが刊行した「日本の洋楽1923〜1944」という5枚組みのCDの企画を一手に引き受けている人物だ。
 片山は早速栃木県田沼町に飛び、町立図書館に移された須賀田礒太郎の楽譜の全てに丹念に目を通し、その内容に付いて詳細な報告書を完成し、コンサートの企画・選曲に大いなる力を注いだ。また彼は「レコード芸術」という雑誌に3回にわたって須賀田礒太郎について詳しく紹介し、多くの好楽家の興味を得た。そして片山はコンサートのプログラムの解説を執筆するほか、当日のレクチャーも担当することとなったのである。

 コンサートの指揮者にも強力な助っ人が現れた。
小松一彦・・・戦前の天才作曲家・貴志康一の交響曲「仏陀」などの数々の作品を現代に蘇演するなど、この分野ではまたとないオーソリティだ。
 2月のコンサートの上演曲目は、慎重な討議の結果次のように決定された。

 1. 交響的序曲 (1939)
 2. 双龍交遊之舞
(1940)
 3. 東洋組曲「沙漠の情景」
(1941)
 4. 交響詩「横浜」
(1932)

 このコンサートの実現にあたっては、その演奏楽譜の再現にも数々の気配りがなされた。パート譜の作成では3か月という十分な時間を用意し、作成の段階でもし譜面に疑問点が出た場合は直ちに指揮者に検討を依頼し、十分な討議を経たうえで初めて最終譜面の印刷が行なわれたのである。
 このコンサートに先立つ2001年12月には、前述の須賀田の弦楽四重奏曲第2番の初演が東京で行なわれた。また各種マスコミによって2月9日のコンサートの紹介がおこなわれ、コンサートに対する期待は次第に高まっていった。そしていよいよ「須賀田礒太郎の世界」は、その本番当日を迎えることとなった。


11. 舞いおりる思い 〜 
  神奈川フィル「須賀田礒太郎の世界」コンサート


   (須賀田礒太郎の世界=プログラム)

 2002年2月9日、神奈川県立音楽堂は、ほぼ満員の聴衆で埋め尽された。演奏に先立って、片山杜秀と小松一彦によりプレトークが行なわれ、須賀田礒太郎という作曲家の生涯と作品、そして今回のコンサート実現までのいきさつ等が熱っぽく語られた。会場には、チャーター・バスでわざわざ駈けつけた、多くの栃木県田沼町の人々の姿も見られ、開演前に紹介された。
 やがて「交響的序曲」の重厚でゆっくりとした響きが奏されると、会場は時間と空間を超越した、不思議な雰囲気に包まれて行った。今日ではまず聴けないであろう、先人の熱き魂の響きが、次第に聴衆の心をとらえて行く。

 当日の会場にはN響アワーの司会等で著明な作曲家・池辺晋一郎も顔を見せていた。
池辺は演奏会終了後「こりゃあ面白い! ぜひ今後いろいろな場所で紹介したいな」と笑顔で語っていたとの事である。その成果は4月11日付け読売新聞「耳の渚」に、遺憾なく記された。
その記事の一部をここに記す。

「この日演奏された一曲目は「交響的序曲」(1939)。管楽器群がクレッシェンドしつつ和音を奏する形が斬新。次の「双龍交遊之舞」(1940)は雅楽に基づく意欲的な作品。「東洋組曲 〈沙漠の情景〉」(1941)は当時の時局を反映したエキゾチックな曲で、ホイッスルまで駆使したオーケストレーション(管弦楽法)は華麗だ。
 とりわけ興味深かったのは四曲めの「交響詩〈横浜〉」。二部から成る大作だが、1932年、つまり最初期の、やや習作的なものだ。ストラヴィンスキーの「火の鳥」や「春の祭典」、またラヴェルの「ダフニスとクロエ」などにそっくりのフレーズが顔をのぞかせる。あの当時、このような新しい音楽の情報に精通し、模倣的とはいえ「書いた」ことには驚きを禁じ得ない。さらに、弦楽器のコル・レーニョ(弓の背つまり木の部分で弦を叩く奏法)や、チェレスタ(ハンマーで鉄片を打つピアノ型の鍵盤楽器)による旋律など、実験的な精神にも満ちている。これは大した作曲家だぞ・・・。僕はうなった」

 また、田沼町の蔵の中から楽譜を発見した黒澤雄太の感動も、並大抵のものではなかった。
以下にその文章を記す。

「その日僕らは、50年間眠り続けていた須賀田礒太郎の魂を、たしかにはっきりと、現実のものとして体感した。
 網膜は舞台上で演奏するオーケストラを写しだし、鼓膜は紡ぎだされた空気の振動を音としてとらえ、お互いに握りしめた両の手は、感応し汗を行き来させ、鼻は会場に集まった観客の発酵する匂いをかぎ、すべてが終わったあと、乾いた舌は冷たい水を吸収し、歓喜した。(中略) 指揮者の小松氏と、それにひっぱられる神奈川フィルの演奏は、ある種の熱気というべきものを放っていて、それが観客に伝わり、会場はそれらが渾然一体となって生み出すハーモニーにつつまれた。そのまっただなかに昇化する、須賀田礒太郎という、かって確実に存在したことが証明された、音楽家の魂。
 そうだ。誰が何と言おうとも、魂は決して死なないんだ。
 平成14年2月9日。
 その日、僕らは目撃者となり、そのさまを伝えてゆく語り部となった」
 
 また黒澤陽子は、のちに次のように語っている。

「演奏を聴いているうちに、まるで伯父が会場の中にいて、耳をそばだてているような、そんな不思議な「気」のようなものを感じました」

 この黒澤の思いはおそらく、須賀田と直接関わった経験を持つ田沼町の人々も同様であったのだろう。終演後舞台上のオーケストラのメンバー一人一人に「ありがとうございました」と声をかける田沼町の人たちの姿が見られた。また中には「今日の演奏を先生ご自身に聞かせたかった」と、涙ながらに語る人もいたという。
 なおこのコンサートの模様はテレビ神奈川により放映され、また池辺の尽力でFMでも全国放送された。


12. 魂の記録 〜 コンサート演奏曲目について


 つぎに、当日演奏された4曲について記す。

 まず「交響的序曲」は先の項でも述べたように、1939年 (昭和14年)12月に完成し、翌1940年 (昭和15年)、日本放送協会主催の紀元2600年記念奉祝管弦楽曲コンクール「序曲の部」に入賞を果たしたもの。以上のいきさつから、この曲は「興亜序曲」という原題を持っている。須賀田がドイツ・オーストリア古典・ロマン派以来の伝統に従った作風に転換した時期の代表的な作品だが、フランス音楽的色彩感やヒンデミット的な和声や構成も垣間見ることが出来る。なおこの時須賀田と同時に、先に須賀田について辛辣な批評を書いた早坂文雄の「序曲ニ調」も入選している。
 この曲の内容については、別項で譜例も交えて詳しく記してあるので、ぜひそちらを参照いただきたい。

 つづく「双龍交遊之舞」(三管編成/演奏時間13分)は、紀元2600年を記念してNHKよりラジオ放送のための楽曲として委嘱されたもので、山井基清、近衛秀麿両氏から薫陶を受けた雅楽のエッセンスが結集した、須賀田の雅楽的作品の頂点を為す作品と言えるだろう。当時は他にも、雅楽の響きをオーケストラで現わそうと実験を重ねる作曲家が多かった。この作品の初演は橋本国彦の指揮する日本放送管弦楽団 (現N響)の演奏により、同年11月10日にラジオ放送として行なわれた。
 曲は次の三つの部分からなり、それぞれに表題と演奏上の注意とが記されている。

 序「東洋古代旋律に依る舞楽」(神秘的に、かつ高貴に)
 破「納曽利・破」(重く、かつ早く)
 急「納曽利・急」(優雅に)

 3曲目の東洋組曲「沙漠の情景」(二管編成/演奏時間25分) は、1941年8月8日に完成された作品で、時局柄当時巻き起こっていたアジア・ブームを彷佛とさせる、まことにエキゾチックで親しみやすい内容を持っている。 我々日本人が例えばアラビアン・ナイトやシェエラザードの世界に思いを馳せ、そうしたイメージを音楽として具現すると間違い無くこういう形となるという、まるで見本のような作品である。中でも第4曲「東洋の舞姫」の美しさは比類が無く、指揮者・小松一彦は「この曲は、須賀田のテーマとなり得るものだ」とさえ述べている。


  (「沙漠の情景」自筆フルスコア)

(神奈川フィルは後に、アフィニス文化財団が刊行するCD「アフィニス・サウンド・レポート No.25」の中に、この組曲のライブ録音を選び、収録した) なおこの組曲は、1951年にオペレッタ「宝石と粉挽娘」作品28のなかで作曲者により再編曲され、挿入されている。
 曲は次の5曲から成り、それぞれに作曲者自身による分かりやすい説明が記されているため、括弧内に併せて記す。

第1曲「聖地の巡礼」アンダンテ・ソステヌート
  (宗教発生地たる西亜細亜の古い遺跡とそこに集まる巡礼者の情景)
 曲はハープと弦楽器・フルートの、静かで祈るような響きに始まり、クラリネットの短いカデンツァの後、ヴァイオリンによって得も言われぬ美しい主題が奏される。指揮者・小松一彦は、このもの悲しい旋律を「タリバンによって破壊された、バーミアンの石仏への鎮魂歌」との想いで指揮を取ったという。同じ主題がいろいろな楽器によって何度もくり返された後、フルートのカデンツァを経て、曲は静かに終わる。

第2曲「沙漠の商隊」モデラート・アルモニオーソ
 (広漠たる沙漠の長途の旅に駱駝を沙漠の船と頼み希望の地を目指して行く隊商の描写曲)
 曲冒頭から、駱駝に揺られながら進む商隊の様がまるで目の前に浮かぶかのような、見事な描写音楽。

第3曲「沙漠の巡邏兵」アレグロ・マルツィアーレ
  (獰猛な盗賊団の出没する沙漠の治安維持をはかる兵士たちの行進曲)
 まことに分かりやすいマーチである。かといって四角四面の軍隊調ではなく、曲想はあくまで明るくユーモラス。こんなに純朴な行進曲は、とても現代では生まれないだろう。須賀田のセンスが光る佳曲である。

第4曲「東洋の舞姫」アレグレット・コン・センティメント
  (沙漠の夕べに集い来たり楽の音に楽しく踊る沙漠の娘達 ! 大空には黄金色の月と銀色の星が輝く)
 全曲の白眉であるばかりか、須賀田の全作品の中でも、最も美しい旋律がここに聴かれる。打楽器の前奏に乗ってオーボエにより奏されるメロディーは、一度耳にしたら、もはや忘れる事は出来ない。中間部でヴァイナリンが奏でる旋律もエキゾチックの限りで、現代に生きる我々が遠い記憶の彼方に幽かに持っていたノスタルジアの世界が、目の前に鮮やかに表出する。



第5曲「アラビア馬に跨りて」アンダンテ・コン・モト〜アレグロ・フレスコ
  (アラビア種の駿馬に跨り、岩山あるいは沙漠を自由に走破する若者の乗馬訓練。爽快溌溂たるギャロップ)
 理屈抜きで楽しめるフィナーレだ。トランペットの仰々しいファンファーレに続いて、アレグロで奏される主題の、何と馬鹿馬鹿しいまでの楽しさ!! 音楽とは決して一部の気取ったインテリのためだけにあるんじゃないよ、と片目を閉じて囁く須賀田の笑顔がここにある。この終曲を聴いて一体聴衆がどんな顔をするか、さぞや須賀田はその目で見たかった事だろう。トリオでシンコペートするホルンの響きなど、オーケストレーションも絶好調。

 コンサート最後に演奏された大作・交響詩「横浜」(四管編成/演奏時間35分)は、1932年(昭和7年)の作というから、ちょうど須賀田が菅原明朗に師事していた頃の作品である。菅原はラヴェル・ドビュッシーらのフランス音楽に傾倒し、またストラヴィンスキー等のモダニズムにも大きな興味を持っていた。この「横浜」を聴くと、そのような師から伝えられた技法を、須賀田はまことに見事に習得していたことを、ありありと伺う事が出来る。
 曲には「二部よりなる横浜に於ける幼児回想の叙景」という副題がついており、第一部、第二部とも進行に従って、それぞれ詳しいタイトルが付けられている。
それを以下に記す。

 第一部 (導入部〜風と松の景〜桜の咲く頃〜子守歌〜異人の踊り〜松山の夜)
 第二部 (雑踏〜行列の入来〜花火〜道化の踊り〜行列の通過〜雑踏)

 第一部 の「導入部」「風と松の景」のオーケストレーションは、まるでドビュッシーの「海」や「映像」の模倣と言ってよい、印象派風の音楽。その合間にストラヴィンスキーの「火の鳥」そっくりの木管のフレーズが現れたりする。
それにしても、ヴァイオリン群に要求されている五度間隔で奏するフラジォレット奏法など、当時の日本のオーケストラのレベルで、果たして演奏可能だったのだろうか?
一転「桜の咲く頃」では、にぎやかな日本古来の祭り囃子風の音楽。つづく「子守歌」は「風と松の景」で断片的に現れた主題が、ここではクラリネットによって心行くまで美しく奏される。しかしそれも束の間、音楽は突然ストラヴィンスキーの「春の祭典」の模倣 (ディズニー映画「ファンタジア」でマンモスが歩く場面に使われた箇所、といえばお分かりいただけるだろうか)となり、不協和音が炸裂する。アクロバットのような無気味な音の動きが続く「異人の踊り」を経て、曲はふたたび「子守唄」のメロディーに帰り、静かな「松山の夜」を迎えるのである。

 第二部は「異人行列」というタイトルにあるとおり、まことに華やかで異国趣味溢れる快活な主題から始まる。その構成は第一部とは異なり、「雑踏」で現れた最初の主題が「行列の入来」「花火」「道化の踊り」「行列の通過〜雑踏」というそれぞれの副題に沿って、徐々にオーケストレーションを転換して行くという手法が取られており、終始生き生きとしたリズムと多彩な管弦楽法が羅列されつつ、フィナーレに向かって行く。須賀田はここで、これまで習得した様々な技法を片っ端から試してみたかったのではないか、と私は想像する。
 先に作曲家の池辺晋一郎が驚嘆していたように、1932年というこの時期に須賀田礒太郎がラヴェル・ドビュッシーのみならずストラヴィンスキーの管弦楽法までをも、たとえ模倣の域を出ないとは云え、その習作で試していたというのは、注目に価しよう。
 しかし須賀田は、この「横浜」を書いた翌1933年(昭和8年)から、プリングスハイムに師事することとなる。彼のもとでドイツ・オーストリアの基礎的な管弦楽法を叩き込まれた須賀田は、かつて菅原から得たフランス音楽の技法は感覚的、刺激的に過ぎ、精神的に物足りないと感ずるようになって行った。そのような理由によるものかどうか、この横浜には、作品番号が付けられていない。しかし、僅か26才の若者がその溢れ出る感受性と向上心で一気に書き上げた感のあるこの「横浜」は、やはりこの時代の力作として記憶されるべき作品に違いない。


13. 残された絆と新たな絆 〜 
  田沼町演奏会と「須賀田礒太郎の世界」Vol. 2

 2月の須賀田礒太郎コンサートの余韻がまだ醒めやらない2002年6月30日、今度は須賀田礒太郎ゆかりの栃木県田沼町の中央公民館大ホールで、須賀田礒太郎没後50周年を記念するコンサートが開催された。これは2月のコンサートで横浜まで大挙駆け付けた須賀田礒太郎にゆかりの田沼町の人々の熱意によって行なわれたもので、そのプログラムは戦後須賀田が田沼町の人々ために作曲した歌曲・合唱曲・新民謡などが中心となり、須賀田に対する田沼町の人々の敬慕の想いが端々に伺える、それは心暖まるコンサートであった。
 
     

 当日の会場には先のコンサートで大奮闘をした片山杜秀をはじめ、黒澤陽子や黒澤雄太、そして須賀田の弦楽四重奏曲第2番の再演に尽力をした音楽評論家・高久暁の姿も見られた。また神奈川フィル事務局長・鈴木省二も駆け付けた。彼は会場で挨拶に立ち、「まだ私案の段階だが・・・」と断ったうえで「将来、この田沼町で神奈川フィルによる須賀田礒太郎作品のコンサートを実現したい」と語り、会場から大きな拍手を浴びていた。 また田沼町女声コーラス代表の慶野日出子は、須賀田が残したピアノのための小品や歌曲・童謡などを歌うコンクールや音楽祭などをぜひ開催したい、という夢を語った。また栃木県庁広報課でもこの8月25日、テレビ広報番組「とちぎ情報局」という45分枠の番組中、約20分の時間をさいて須賀田礒太郎の横浜・田沼町両コンサートの模様や、関係者の証言を放送した。

 
 その2年後、前回のコンサートの好評を受け2004年3月11日、同じ神奈川県立音楽堂で「須賀田礒太郎の世界」Vol. 2が開催された。そのプログラムは次の通りである。

1. 序曲 (1944)、2. 日本華麗絵巻 (1935)、3. 双龍交遊之舞 (1940)、
4. ドビュッシー/交響組曲「春」5. 幻想的組曲「SAKURA」 (1933)



 (須賀田礒太郎の世界 Vol 2 =プログラム)

 前回のコンサート同様、演奏に先立って指揮者・小松一彦と音楽評論家・片山杜秀による懇切丁寧なレクチャーが行なわれた。1曲目の「序曲」は、ドイツ古典派的な重厚な曲想をもち、音型といい曲の途中で出て来るフェミオレといい、明らかにベートーヴェンの「エロイカ」を意識したもの。緻密さと力感に満ちていながら叙情的な素朴さも持ち合わせた作品だ。 続く「日本華麗絵巻」と再演となる「双龍交遊之舞」は、共に雅楽を基調とした、須賀田お得意の作品。
 休憩のあと須賀田がその初期に私淑していたドビュッシーの「春」が演奏され、いよいよこのコンサートのメイン曲「SAKURA」が登場する。4楽章からなるこの曲は、演奏時間がじつに30分にも及ぶ大曲で、前回の交響詩「横浜」(1933) の続編とも言える作品だ。
当時のモダニズムの最先端をゆく斬新な技法が、ふんだんに盛り込まれた第1曲など「自然の目覚め」というタイトルにもよるためか、ストラヴィンスキーの「春の祭典」冒頭部の模倣が至る所に顔を出す。フーガ的展開を見せる第3曲やダイナミックな終曲も圧巻で、会場は終始、華麗なオーケストレーションに圧倒された。
 しかしながらこのコンサートの最大の聴きどころは、実はアンコールで演奏された2曲にあったのである。最初の「バレエ・カブリチオ」(1937) の楽譜の巻末には、須賀田により次のようなメッセージが書き加えられている。

「此の管絃樂は宮内省樂部の應募作品で、公募に提出したが、時局緊迫のため發表が延期され、遂に中止の止むなきと至ツたものである。演奏せず良否が判らぬが、作品として収録する事。」

 つまり何と今回の演奏が、作曲後66年もの時を経ての「初めての演奏」だったのだ!! 須賀田は、どんなにかこの曲の生の演奏を耳にしたかった事だろう。 曲は僅か5分ほどの小品だが、終始2/4 + 4/4の変拍子で書かれており、洒落たセンスと色彩感に満ちた管弦楽法はまさに天才的と言って良く、意表をついたピチカートの最終和音が響いたその瞬間、会場からは思わず「ほう!」という声が上がった。
 そして最後の曲…前回のコンサートで大好評を博し、いまや須賀田のテーマ曲ともなりつつある、あの組曲「沙漠の情景」から第4曲「東洋の舞姫」
現代の荒み切った日本人が忘却の彼方に置き去りにしてしまった純朴な感性が産んだこの至高のメロディーについて、一体どのような言葉を弄したら良いのだろうか。せめてこの曲だけでも是非、一人でも多くの方々に聴いていただきたい、いや聴かれるべきだと私は思う。
 コンサート終了後、ナクソス「日本の作曲家シリーズ」のプロデュースを担当している片山杜秀は、関係者に熱っぽくこう語っていたという。
「須賀田礒太郎の作品をぜひCD化したい !! …今夜のコンサートを聴いて、わたしゃ真剣にそう思うようになりましたよ」


14. 2度あることは3度ある 〜 「須賀田礒太郎の世界」Vol. 3


 ところで当初「1回だけ」と誰もが思っていた須賀田の復活コンサートは、開催されるごとに多くの人々の共感を呼び、新たな出会いと感動を産み出した。特に今や「須賀田のテーマ」とも称される「東洋の舞姫」(組曲「沙漠の情景」(1941)の第4曲) の人気は強く、「ぜひあの曲をもう一度聴いてみたい」「須賀田さんのCDは出ていないのですか?」という問い合わせが、各方面から寄せられるようになった。神奈川フィルによる2回の復活コンサート以後、管弦楽以外でも2曲の弦楽四重奏曲をはじめ、浄書化された30曲にも及ぶ歌曲・合唱曲が、須賀田ゆかりの横浜、田沼町のほか、2005年には初めて大阪でも取り上げられた。そして同年、須賀田初期の唯一のヴァイオリン独奏曲「ソナタ・ロマンティック」(1935) が、高校生ヴァイオリニスト・杉本裕乃により横浜で再演され、大きな話題を呼んだ。杉本は2006年のコンサートでも、そのアンコールに「東洋の舞姫」を演奏したが、聴衆の中から「アンコールの曲が一番良かった」「あれはいったい何という曲なの?」という声が、数多く聞かれたという。また2006年6月にはガレリア・ウインドオーケストラにより、須賀田が1943年に作曲し永らくNHKアーカイヴスの収蔵庫に埋もれていた幻の吹奏楽曲「台湾民謡に依る舞踏曲」《八月十五夜》が、彩の国さいたま芸術劇場 大ホールにおいて実に60年ぶりに再演された。また同月には須賀田のコンサートを開催している神奈川フィルハーモニー管弦楽団の弦楽器奏者5人による「杉本正と横浜弦楽五重奏団」が、「オーケストラの弦楽器たち」と題した演奏会で須賀田の「農夫達の踊り」を演奏するなど、須賀田音楽再評価の輪は確実に拡がりつつある。

 そしてついに2006年7月1日、同じ神奈川県立音楽堂で「須賀田礒太郎の世界」Vol.3が開催されることが正式に決定した。
黒澤陽子は語る。
「2度あることは3度あると信じ、今回のコンサート実現を目指して来ました。コンサートの日取りがちょうど伯父の命日の直前なので、伯父の法要だと思って成功に向け頑張りたいと思います」
今回こそ、これで本当に最後のコンサート、との思いを強く持った須賀田の遺族・黒澤家では、コンサート開催にあたり次の3点の要望を提出した。
それは

 1. コンサートの全プログラムを、須賀田礒太郎の作品とすること。
 2. 多くの方々から再演の希望が寄せられている「東洋の舞姫」を含む組曲「沙漠の情景」をプログラムに入れること。
 3. このコンサートの上演曲を、将来CD化出来るような音質でライブ録音すること。

 であった。
神奈川フィルはこれらの要望を受け、指揮者・小松一彦とともに第3回コンサートのプログラミング作業に取りかかった。またこのコンサートは平成18年度文化庁芸術創造活動重点支援事業の指定を受けたほか、アフィニス文化財団、三菱信託芸術文化財団、ローム・ミュージック・ファンデーションの各財団の助成を受ける事となった。

 その後ライブ録音とは別に、3日間の練習のうち2日を宛てCD録音をしようという企画が、NAXOSという外資系CD会社から舞い込んで来た。これは先の2回の須賀田コンサートでプログラムの解説とレクチャーとを担当した音楽評論家・片山杜秀が、自らが企画を手掛ける人気シリーズ「日本作曲家選輯」に「須賀田を是非」と働きかけたことによるものであった。結果的に非常にタイトなスケジュールになったにも拘わらず、指揮者の小松一彦をはじめ、神奈川フィル事務局・楽員双方ともこのプランに積極的に取組んだ。

「CD化するのであれば、これまで上演し好評を得たあの曲を是非入れたい」
「いや、まだ演奏されていない主要作品もいくつかある」
プログラミング作業は紆余曲折を繰り返したが、コンサート4か月前の3月になって、ようやく以下のプログラムが確定した。

1. 祭典前奏曲 (1935)
2. 交響的序曲 (1939)
3. 双龍交遊之舞 (1940)
----------------------------------
4. 東洋組曲「沙漠の情景」(1941)
5. バレエ音楽「生命の律動」(1950)

(アンコール) 国民詩曲「東北と関東」より〜第2曲「関東」

2,3,4 は過去2回のコンサートですでに取り上げられているが、須賀田の主要作で再演の希望も多く、またCDにぜひ収録したいという事が決定要因となった。また1は須賀田のコンクール受賞第2作目でもあり、初期の雅楽的作風を持つ小品群を代表する作品ということで選ばれた。
あとは「メインの曲目」を何にするかというのが最大の課題となった。協議の結果、国民詩曲「東北と関東」(1938)と、バレエ音楽「生命の律動」(1950)の2曲が残った。
須賀田は田沼町に移った後、たとえ演奏の可能性が無くとも、その死の直前まで管弦楽作品を書き続けたのだが、神奈川フィルによる前2回のコンサートでは、まだ戦後の主要作品を取り上げておらず、プログラムを作曲年代順に追う形にした方が聴き手に楽しんでもらえるのでは、という配慮もあって、最終的に「生命の律動」がメイン曲に選ばれ、国民詩曲「東北と関東」は、「関東」のみがアンコールとして上演されることとなった。

 練習第1日目。リハーサルは、これまで未演奏のものを優先的にプログラム全曲を音出しし、譜面のチェック等に費やされた。そして第2日目からいよいよレコーディングだ。プロデューサーには日本でも有数の辣腕スタッフがあたり、限られた時間の中、見る見るうちにレコーディングが進んで行く。その手際の良さには舌を巻く程だ。
こうして練習第3日目の予定時間一杯を使って、交響的序曲双龍交遊之舞、生命の律動東洋の舞姫の4曲がレコーディングされた。

「素晴らしい曲だ!!  こんな作品があったなんて・・・」

「交響的序曲」
の録音を終えたプロデューサーが、レコード会社のスタッフに嬉しそうに叫ぶ。
実は私は、その何倍も嬉しかったのだ。ようやくあのフィナーレの感動的なコラールが、CDによってすべての人々の心に届くのだから。

 「須賀田礒太郎の世界」Vol.3ポスター

 いよいよコンサート当日。時おり小雨がぱらつく生憎の天候にも拘わらず、会場には大勢の人々が駆け付けた。そして開演の1時間も前には、栃木県田沼町から満員のチャーター・バスが会場に到着していた。須賀田に直接ピアノの指導を受けた元田沼小学校教諭の尾花陽子をはじめ、田沼町女声コーラス、元田沼町南部青年団のメンバーらの顔が横浜にずらりと揃った。皆、生前の須賀田の人柄を偲び、早朝から遠路はるばる駆け付けてくれたのだ。
 今回のコンサートでは特筆すべき事がある。それは会場のロビーに須賀田礒太郎の直筆譜をショーケースに入れ、初めて展示した事だ。「伯父の誠実な仕事ぶりが偲ばれる譜面を、是非多くの人々に直接見ていただきたい」という黒澤ご夫妻のたつての願いから行なわれたこの試みは、神奈川新聞社に取り上げられるなど、大きな反響を巻き起こした。ロビーで初めて直筆譜を目にした人々は、そこに記された流れるように美しい音符の数々に息を呑んだのである。
また、これまで3回の演奏会で作成された浄書フルスコアも、同時に展示された。

 コンサートに先立ち、従来通り片山杜秀と小松一彦によるプレトークが行なわれた。
コンサートは「祭典前奏曲」で幕を上げる。ハープのグリッサンドに乗った木管楽器による雅楽的和音が、会場に得も言われぬ優美な雰囲気を醸し出す。
続く「交響的序曲」。須賀田がそれまでのフランス的な語法から後期ロマン派的作風に移って行った、その頂点を示す名作だ。金管の重々しい和音に導かれたオーボエの侘びしい響きが何とも魅力的。長大な序奏の後、曲は突然アレグロ・エネルジーコに雪崩れ込む。対位法の成熟を示しつつ、やがて曲は転調を重ねながら、ついに感動的なコラールへと突き進む。
「すっごい!! 今日は何かオケの人たち、乗ってるじゃないですか」黒澤雄太が嬉しそうに呟く。
前半最後は、須賀田の雅楽的音楽の頂点で、日本のこの種の音楽の中でも最高峰と思われる「双龍交遊之舞」だ。
この作品について、今ここでこれ以上何の解説が必要だろう。

 後半最初は、須賀田作品の中でも最も人気のある組曲「沙漠の情景」
須賀田には珍しい、弦楽器を何声部にも分けた第1曲「聖地の巡礼」の哀切的なテーマが美しい。ソロを勤めるクラリネット、フルートも好調だ。駱駝の行進を素朴に音化した第2曲「沙漠の商隊」や、マーチ風の第3曲「沙漠の巡邏兵」に合わせ、前の席の子供たちが実に嬉しそうに手を振っている。須賀田が見たらどんなに喜ぶ事だろう。
そしていよいよ第4曲「東洋の舞姫」・・・・。私はこのテーマを今や涙なくしては聴けない。神奈川フィルの演奏も、曲に対する感情移入が実に自然で手慣れており、オーボエのソロなど、とても第1回と同じメンバーとは信じられないほど艶かしい。 極め付けは第5曲「アラビア馬に跨りて」だ。神奈川フィルはこの曲を「横浜が産んだ名曲」として、音楽教室で何度も演奏して来たと言う。そのためだろうか、楽員の乗りもまことに手慣れたもので、打楽器のメンバーたちなど、本当に楽しそうに演奏している。ユーモラスなホイッスルなど、まさに職人芸だ。  
 プログラム最後は、問題のメイン曲・バレエ音楽「生命の律動」だ。 冒頭のホルンの和音は、完全にストラヴィンスキーの模倣。須賀田は20年前の交響詩「横浜」の世界に帰ってしまったのだろうか、と一瞬不安な気持ちが過る。しかし、やはり何かが違う。オーケストレーションはより簡潔・明解で、各パートの分離・鳴りも「横浜」とは明らかに異なる。20年近い月日は、須賀田の中に大きな進歩をもたらしていたのだ。 そしてこの作品の極め付けは、やはり最後の和音だろう。ハ長調の純正和音で終るかと見せかけ、曲はドミナントの不協和音のまま、フォルテッシモでその終わりを告げてしまう。 私はリハーサルでこの不協和音を聴いた時、明らかにこれは楽譜が間違っていると思った。しかし、2回目に聴いた時・・・・須賀田の強い意志が込められた不協和音であることがハッキリと分かり、鳥肌がたつのを覚えた。  

ハ長調の当たり前の和音で終ってしまいたくない !!  自分にはまだまだ書きたい音楽が心の中に、山ほどある。
もっと生きたい!! 生き続け、作曲を続けたい・・・・

痛々しい程直截に伝わって来る須賀田の強烈な思い。肺結核の発作に苦しみながら、時には深夜に頭から冷水をかぶりながら書き上げたというこの「生命の律動」。 最後の壮絶な不協和音は、須賀田のそうした病むにやまれぬ思いの発露でなくて何だろう。  
 メイン・プロ終了後、アンコールとして1938年の国民詩曲「東北と関東」から、第2曲「関東」が演奏された。
スコアを一見しただだけでは、ただただ混濁した音楽のように見え、また早坂文雄により酷評された過去を持つこの作品も、今日のように明解な解釈と高いアンサンブル能力で演奏された場合、卓抜した作品であることが手に取るように理解され、私は込み上げる喜びを押さえる事が出来なかった。
 
 終演後片山杜秀は興奮気味に語っていた。

「こんな素晴らしい曲を、CDの収録予定曲に入れなかったのは、まことに痛恨の極みです!! 」

私も全く同じ思いである。 CD音源とは別に、「沙漠の情景」「祭典前奏曲」を含むライブ音源も、何とかライブCDとして発売出来ないものだろうか。また指揮者・小松一彦はコンサート終了後、黒澤陽子に「須賀田のコンサートはいつも、とても暖かい「気」を感じます」と語ったという。

こうして「須賀田礒太郎の世界」Vol.3は、大成功のうちにその幕を閉じた。  舞いあがる思いの、ごくごく一部は、ようやく人々の心に届きはじめた。 私たちは須賀田礒太郎という天才作曲家の世界の扉を、今ようやく開いたところなのだ。


15. 須賀田礒太郎の作曲法

 それではここで、須賀田礒太郎の生涯にわたっての、作曲法の変遷を辿ってみよう。
須賀田はまず、その作曲の勉強を古典派のソナタ形式の習得からスタートした。1931年に書かれたスメタナの同名作を思い起させる「わが生活から」と題された習作交響曲は、ベートーヴェンの第5交響曲を彷佛とさせる、3連音の「運命の動機」で始まる。曲想はソナタ形式の模範回答と言えるもので、第1、第2主題の提示や和声もまことに簡潔、たいそう分かりやすい。なお、須賀田唯一のヴァイオリンのための「ソナタ・ロマンティック」(1935)は、古典派ソナタ形式における須賀田の頂点といえる。

 以後の須賀田の作風の変遷は、細かく分けると次の6つのグループに別れる。
もちろん全ての作品がこの区分けに分類されるという訳でなく、曲によって複数のグループのニュアンスを内包するものが多数ある事を、ここにお断りしておく。

 第1は、ドビュッシー・ラヴェル等のフランス近代印象派を基調とした作品。

1931年から須賀田が師事した菅原明朗は当時、我が国におけるフランス的作曲法の第一人者であった。この手法で須賀田は同年、管弦楽曲「夜想曲」「春のおとづれ」の2曲を相次いで作曲する。

 第2は、前記のフランス音楽的語法を日本の雅楽の管弦楽曲化に応用したもの。

両者の適合性に注目した須賀田は、初の受賞作となる「祭典前奏曲」(1935)を皮切りに、以後「日本華麗絵巻」(1935)、「双龍交遊之舞」(1940)、「天長地久」(1941) など、この手法による作品を次々に発表し、その多くは作曲コンクールに入賞した。特に「双龍交遊之舞」は早坂文雄らに大きな影響を与えるなど、須賀田の全作品の中でも傑作と言える。

 第3は、伝統的なフランス音楽的語法に、当時最も先鋭的と見られていたストラヴィンスキーなどの手法を取り入れたもの。

この手法の萌芽は既に、1932年の大作・交響詩「横浜」で見られ、幻想的組曲「桜」(1933)、「バレエ・カブリッチョ」(1936)へと続いて行く。最晩年のバレエ音楽「生命の律動」(1950)は、この路線の集大成とも言える作品で、途中作曲法に紆余曲折はあったものの、この路線が彼の生涯の作曲法の基調となっていたのではなかろうか。

 第4は、緊迫した世相を反映し、ドイツ・オーストリアの後期ロマン派の緊密な作曲法を基調としたもの。

1930年代半ば頃から須賀田は「真に日本音楽の伝統を活用するためには後期ロマン派的手法の習得が欠かせない」と思うようになっていた。その皮切りとなったのが1938年、新響邦人コンクールに入賞した須賀田の出世作「交響的舞曲」である。この分野では他にヒンデミットの影響が顕著な「交響的序曲」(1939)や、それまでの須賀田には見られなかった内省的な心情を深く抉った傑作・葬送曲「追想」(1941)、交響曲第1番「フィルハーモニー交響曲」(1942)、序曲(1944)など、注目作がめじろ押しだ。須賀田の筆が最も脂の乗り切った時期の作品群と言えよう。

 第5は、後期ロマン派的手法を用い、そこに民謡などを取り入れた国民楽派的な作品。

須賀田は1938年、新響邦人コンクールに入賞したことにより、翌年、晴れて当時一流作曲家を対象とした作曲シリーズ「国民詩曲」の委嘱を受けた。ここで発表したのが「東北と関東」(1938) で、少しでも多くの大衆に音楽を楽しんで欲しい、と願っていた須賀田は、以後この路線の作品を次々に発表する。東洋組曲「沙漠の情景」(1941)、日本舞踊組曲(1950)、日本民謡による4つのパラフレーズ (1951)、オペレッタ「宝石と粉挽き娘」(1951)などが、この分野に当てはまる。

 第6は、作曲家として常に新しい手法を求め続けていた須賀田が、終戦後「作曲の未来はこれしかない」と信じ、挑んでいた「無調的音楽」である。

どの時代においても、その時々に最も注目が集まっている技法を取り入れようとするのは、作曲家の常である。栃木県の田舎町で「時代から取り残されるのでは・・」という危機感を抱いていたであろう須賀田が、当時最もモダンな音楽と信じられていた「無調音楽」に関心を抱いたのは、いわば当然なのかも知れない。この分野を代表するのは1946年の「弦楽四重奏曲第2番」(無調風) であるが、わずか5分程度の小曲を書くのに須賀田は莫大な試行錯誤を繰り返し、挙げ句の果てに演奏者から演奏拒否にあってしまう。その後、バレエ音楽「ピカソの絵」(1949)などに無調の響きは聴かれるものの、須賀田自身この手法を極めるには、その人生は余りにも短かかった。


16. そして未来へ


 先にその文章を引用した作曲家・池辺晋一郎は、同じ記事の最後をこう結んでいる。

「日本の近代音楽史の、いわば空白期を埋めようとする動きが、このところ顕著なのである。世紀の変わりめという理由もあったに違いない。が、それだけでなく、たとえば交通システムの進歩による距離間隔の変化と同様、歴史という距離についても、遠くを見る技術が精緻になってきたのではないか。だとすれば、人間の「忘れる」という「術」にも変化が訪れているはずだ。かつては過去に置きざりにしてきたが、これからは新しい記憶法があるというわけだ。過去が、近くなってきている」

 現代はかってないほど、価値観の多様化した時代であると言われる。情報伝達手段ひとつを取ってみてもインターネットの普及により、居ながらにして様々な情報を瞬時のうちに入手することが可能となった。またテレビの多チャンネル化にそのソフトの供給が追い付かないという事態も生じている。にもかかわらず、私たちは先人の残した貴重な遺産の数々をまったく省みず、いや、その存在すら忘れているのが、悲しい現実だ。  冒頭に述べた1930〜40年代に産み出された管弦楽作品の楽譜のなかには、今日散逸してしまったものも少なくない。しかし1987年、東京・麻布にR日本近代音楽館が創設され、明治以降の我が国の洋楽に関する資料の収集・保存を始めたことは、画期的な出来事であった。ただ残念な事に、現在演奏用のパート譜の存在しないものが多い。(資料参照) 今後は神奈川フィルをはじめ、各方面でより様々な機会に須賀田の音楽が生演奏の機会で取り上げられ、そしてCD録音がなされ、ひいてはそれが不当に忘れ去られてしまっている戦前の先人達の文化遺産の復権の足掛かりとなることを、私は願ってやまない。  置き去りにして来た過去は今、私たちのすぐ目の前にあるのだから。                                   

        〜了〜     (文中の敬称を略させていただきました)



【上記の文を執筆するにあたり、下記の資料を参考・引用させていただきました。 当HPに引用させていただくにあたり、快くご了解をいただきました皆様に、厚く御礼申し上げます。】  (敬称略)

」神奈川フィルハーモニー管弦楽団特別演奏会『 須賀田礒太郎の世界』1〜3/各プログラム
 (2002年2月9日、2004年3月11日、2006年7月1日)
」「須賀田礒太郎〜幻の天才作曲家が残したもの」 〔テレビ番組「とちぎ情報局」〕/とちぎテレビ (2002年8月25日放送)
」日本の管弦楽作品表1912〜1992 〔楢崎洋子 編・著/R 日本交響楽振興財団〕 (1994年10月7日・刊)
」受容史でない近現代日本の音楽史〔小宮多美江・著/音楽の世界社〕(2002年1月15日)
」現代日本の作曲家1・尾崎宗吉〔クリティーク80 編・著/音楽の世界社〕 (1991年4月25日)
」須賀田礒太郎没後50年記念演奏会・プログラム (2002年6月30日)
」読売新聞「耳の渚」須賀田礒太郎の世界〔池辺晋一郎 著〕(2002年4月10日付 読売新聞・文化面より)
」神奈川フィルハーモニー管弦楽団特別演奏会企画概要
」CD 「橋本国彦/交響曲第1番・他」(NAXOS/8.555881J/ 2002年9月発売)
「早坂文雄/ピアノ協奏曲、左方の舞と右方の舞」・他」(NAXOS/8.557819J/ 2005年11月発売) 「大木正夫/交響曲第5番=ヒロシマ・他」(NAXOS/8.557839J/ 2006年3月発売)  各解説 〔片山杜秀 著〕
」横浜交響楽団及び横響合唱団の歴史 〜 小船幸次郎の横浜音楽文化への貢献 (藤田勝也・著) (2006年1月21日)
」日本の作曲家〔冨樫康・著/音楽の友社〕(1956年)
」ラジオ歌謡研究 No.2 (日本ラジオ歌謡研究会・編) (2008年6月)

【参考・引用ホームページ】
」日本武徳院ホームページ 〜 須賀田礒太郎
  http://www.butokuin.com/nbi-sugata.html
」交響詩「横浜」須賀田礒太郎の世界〔閑古鳥 見る・聞く・読む〕
  http://www.asahi-net.or.jp/~ib4s-cyuk/sub3-1-60.htm
」ヨコラーレ 横浜クラシック音楽コラム 〜 須賀田礒太郎の音楽と現代1,2 〔鬼木和浩 著〕
 http://member.nifty.ne.jp/oniki/colum/086.htm
」古希のおしゃべり 〜 須賀田礒太郎と国民詩曲
  http://homepage2.nifty.com/t_muzyka/20020222.html
」下野新聞社ホームページ「平和塔」 〜 須賀田礒太郎記念演奏会
 http://www.shimotsuke.co.jp/hensyu/news/colum02/020628c.html
」アフィニス文化財団ホームページ
 http://www.jti.co.jp/Culture/Affinis/sonota/3report.html
」Kibegraphy 〜 伊福部昭「タプカーラの彼方へ」  
http://www1.cts.ne.jp/~massh/tapukara.ht
m
」日本の吹奏楽の古典
 http://www003.upp.so-net.ne.jp/napp/wind2b.html
」日本演奏連盟ホームページ
 http://www.jfm.or.jp/
                                   

なおこれまで日本武徳院のHPに、須賀田礒太郎を特集するページが設けられていましたが、このたび大幅に更新され、以前私がこのホームページに記していた文章も転載されています。  このページでは、須賀田の音楽を現代に甦らせるにあたり多大な貢献をされた音楽評論家・片山杜秀氏をはじめ、須賀田の妹の孫にあたられる居合道師範・黒澤雄太氏、そして神奈川フィルの「須賀田礒太郎/管弦楽作品コンサート」を聴かれた日本武徳院の方々が、須賀田の音楽について実に熱く、また鮮やかに綴っておられます。
 須賀田の素晴らしい音楽を少しでも多くの皆さんに知っていただくためにも、是非一度ご覧いただきたい、と思います。

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