日本の作曲家たち /2 山田一雄 (和男)

                     (1912 〜 1991 )
   (写真=四谷見附・相沢写真館。昭和10年/山田一雄著「一音百態」(音楽の友社・刊)より)

    (2019.4.8更新)



 1912年 (大正元年) 、学習院教授・山田巌の四男として生まれる。学習院初等科・中等科を経て1931年(昭和6年)、東京音楽学校予科に入学、ピアノを田中規矩士に学ぶ。1932年 (昭和7年)、マーラーの直弟子・クラウス・プリングスハイム指揮による東音第62会定期でマーラーの交響曲第五番の本邦初演に感銘を受け、本科器楽科に進学。プリングスハイムに作曲を学びはじめる。1935年 (昭和10年)、東京音楽学校本科器楽科(ピアノ科)を首席で卒業、研究科に進むと共に「楽団創世」結成。その後作曲・指揮をヘルムート・フェルマー、ヨーゼフ・ローゼンシュトックに師事する。1937年 (昭和12年)、大管弦楽のための「日本の俗謡による前奏曲」が日本放送協会賞第1位に、翌1938年 (昭和13年) には小交響楽詩「若者のうたへる歌」が新交響楽団第2回邦人作品コンクールに入選。1939年 (昭和14年) 、小倉朗、安部幸明らと「楽団プロメテ」を結成。同年、日本放送協会から「国民詩曲」の委嘱に応じ、代表作「交響的木曽」を作曲した。1940年 (昭和15年)、東京音楽学校演奏会で、シューベルトの「未完成」交響曲・第一楽章を振り、指揮者デビュー。以後、作曲家から指揮者へとその活動基盤を移行する。1941年 (昭和16年) 、新交響楽団補助指揮者に就任、翌年尾高尚忠とともに専任指揮者となる。戦後はショスタコーヴィチの「交響曲第5番」やマーラーの「千人の交響曲」を本邦初演するなど、活発な指揮活動を展開。以後大阪放送交響楽団、京都市交響楽団、新星日本交響楽団、東京都交響楽団、神奈川フィルハーモニー管弦楽団などの常任指揮者・音楽監督を歴任。またNHK交響楽団をはじめ日本のほとんどすべてのオーケストラに客演し、その情熱的なタクトによって、多くの熱狂的な「ヤマカズ」ファンを産む。
1991年 (平成3年) 8月、急性心不全のため逝去。


  作曲家・山田和男


 超個性的なキャラクターにより、聴衆・オケメンバー双方から広く愛された名指揮者「ヤマカズ先生」が天に召されてから、はや十余年になります。山田氏がもともと作曲家としてその音楽人生をスタートされたことを知る人は、もう数少ないのではないでしょうか。

 ヤマカズ先生の作品のなかで、現在最も演奏される機会が多いのは「もうすぐ春になるだらう」などの歌曲 (山田夏精の名で書かれている)なのですが、「日本の管弦楽作品表」(財・日本交響楽振興財団/刊)や、山田氏自身の著作「一音百態」によれば、実に14曲もの管弦楽作品が残されています。
 最近とある雑誌で、外山雄三氏があの不滅の名曲「ラプソディー」を作曲したのは、ヤマカズ先生の「交響的木曽」 を聴いて触発されたことが発端だったという記事を見かけ、私は先生の作品に大いに興味を持ちました。
「交響的木曽」 は1940年、NHKの委嘱により作曲された三管編成による18分ほどの組曲で、時局柄当時盛んに推賞された「国民詩曲」(日本的な主題を用いた芸術作品の創造運動) の一環として作曲されました。幸いにして、山田氏の管弦楽曲の多くは、パート譜がそろっているものが多く (その完成度は疑問ですが)、その気になればすぐ演奏出来るので、ぜひ生の舞台で聴いてみたいものだと思います。

 それでは次に、山田一雄氏の残された管弦楽作品のすべてを列記させていただきます。

♯ 日本の俗謡による前奏曲 (1937)
  (日本放送協会コンクール第1位入選、山田耕筰指揮により放送初演。スコア、パート=NHKデータ情報部)
♯ 小交響楽詩「若者の歌える歌」(1938)
  
(第2回新響邦人作品コンクール入選、ローゼンストック/新響により初演。スコア、パートあり)
♯  (1938)
(ワインガルトナー賞受賞)
♯ バレエ (舞踊曲)「白夜」(1938/貝谷八百子バレエ劇場公演で作曲者指揮により初演。スコア、ピアノスコアあり)
♯ 国民詩曲「交響的木曽」Op.12
  (1940/作曲者指揮で放送初演。戦後も新交響楽団、神奈川フィルハーモニー管弦楽団などで数多く再演。スコア、パートあり)
♯ バレエ音楽「呪縛」(印度) Op.13
(1940/貝谷八百子バレエ劇場第3回公演で作曲者指揮により初演。スコアあり。1942年交響組曲「呪縛」として再編。パートあり)
♯ 序曲「荘厳なる祭典」(1940/スコア不明。ピアノスケッチ一部確認)
♯ 嬉遊曲
 
(1940/一管編成室内オーケストラ。川奈バレエ団のために、同年KOK新レパトア試演会でローゼンストック指揮により初演。スコア、パート共NHK交響楽団)
♯ 響ありき (1942)
♯ バレー「バリ島の月」
 
(1943/貝谷八百子第4回新作発表会で作曲者指揮により初演。スコアあり)
♯ おほむたから (1944)
♯ 戦列に (1944/スコアあり)
♯ 二つの慰安曲 (Vn.+O.)
 
(1944/6月25日辻久子堤琴演奏会で、作曲者指揮日響により初演。スコア不明)
♯ 交響詩「奈良より」(1946/日本音楽連盟作曲者指揮により初演。スコア不明)
♯ 日本の歌 (1946)
♯ シンフォニエッタ (小交響曲)「名人」(1956/新室内楽協会第2回発表演奏会で作曲者指揮により初演。スコアあり)
♯ 管弦楽曲「東北民謡」(1962 ?/スコア不明。ピアノスケッチ断片のみ確認)


 ところで山田氏の自伝的著書「一音百態」(1992年) のなかに、自作の管弦楽曲について、たいそう面白い記述があります。出版元の音楽の友社、この本のもととなった神奈川新聞「わが人生」欄担当者様、そして山田御秩子様に転載の許諾をいただきましたので、以下にご紹介させていただきます。


「オーケストラのための曲を次々に発表」

               山田 一雄 (音楽の友社刊「一音百態」より)


 (東京音楽学校) 研究科時代の前半は、ピアニストとして活動していたが、後半の昭和12年から14年にかけては、自作のオーケストラ曲が不思議なほど次々に、賞を受けたり演奏されたりした。
 12年は、大管弦楽のための「日本の俗謡による前奏曲」が日本放送協会賞第1位に。翌13年は、小交響詩「若者のうたえる歌」が新交響楽団 (現・N響) 賞。14年には、交響管弦楽「交響的木曽」を日本放送協会委嘱の「国民詩曲」として書いた。
 「日本の俗謡による前奏曲」の時は、作曲家の偉い先生も応募した中で、なぜかわたしが一位になり、五百円もの賞金をいただいた。大学出のサラリーが五十円か六十円という時代からすれば、これはたいそうな額である。
 受賞後は、山田耕筰氏の指揮によってラジオ放送されたり、各新聞にも紹介された。ところが、なかにはインチキ記者が何人かやって来て、「記事にする」と言うのでいい気になっていると、つまるところ「いくらいくら出せ」という条件つきなのだ。これにはびっくりしたり、あきれたり。ともあれ、この曲がオーケストラ曲としては、わたしの処女作となる。
 それにしても、この次に受賞した「若者のうたえる歌」は、オーケストラ曲としては、曲名全体が異様といえる。しかし、その時点のわたしの「充実した大きな日記」という思いで書いたために、それを表現するには、このタイトル以外に考えられなかった。
「青春」というのは、明るく感じられたり、暗く感じられたりする。曲にはそうした青春の「光と影」といったものを織り込み、まさにその真っただ中にいるわたしの若く荒々しくたぎる血潮や情熱、メッセージを凝縮した作品だった。そして、わたしはこの曲名がぞっこん気に入り、あのあと十年くらいの間は、自作の曲すべてに、このタイトルを付けたいと思い続けたほどであった。
 一方「交響的木曽」は、明るく、絢爛たる曲になった。
東北の庄内平野に伝わる民謡を配した、日本的なメロディの前奏から始まり、そして一挙に山国の木曽へと展開してゆく大管弦楽曲----。以前から、わたしは、迫力に満ちたスケールの大きい曲を書いてみたいと思っていたのだ。
 かの「木曽節」も、もちろん採り入れた。しかし、日本の民謡は、それ自体の完成度が非常に高いために、これをモディファイしたりヴァリエーションをつけて、西洋的なオーケストラの空間に広げるのは、なかなか大変な仕事である。下手をすれば、変に中途半端でぶざまなものになりかねない。
 さらには、日本の民謡は、おおかたがもの悲しげだ。「木曽節」も、一部そういえるだろう。が、絢爛となりうる要素もふんだんにある。大きな曲を書きたい----、と何年か暖めてきた構想が一挙に爆発したかのように、わたしは"わたしの木曽"のイメージを、オーケストラの宇宙空間に広げていった。
 この曲は、題が面白いのか、現在でも覚えている人が多くて、たくさんの指揮者から「ぜひ、演奏したい」という要望が、多々寄せられる。しかし、戦時中、上海の「上海工部局管弦楽団」の要請に従って原譜を送ったところ、戦争のどさくさの中で紛失してしまった。
 肝心の楽譜が、わたしの手元にもないまま、大げさに言えば "幻の木曽" といったところだろうか。第一、今さら演奏されるなど、わたしはどうも、気が進まないのだ。
 指揮者になる前は、作曲ばかりしていたので、作品はいろいろあるけれど、自作の曲については、何やら近親憎悪にも似た複雑な思いがしてならない。懐かしく、いとおしいようであり、ひどく否定したい気持に駆られることもある。
 世の、有名無名の作曲家たちだって、そうだろう。人からどれほど称賛されようと、五線紙に向って作曲している時などは、
「ああ、嫌だ、嫌だ! 破りたい、破りたい! 」 
 と思う瞬間もかならずあるはずだ。本人からみると、まだまだ "足りない"。 よほどの鉄面皮にならなければ、十年後、二十年後に演奏しもらおう----という気持になど、ゆきつかないものだ。
 だから、自らに対する批評精神の旺盛な人であれば、書く片っぱしから、五線紙を引き破ってしまうだろう。が、それでは、世界中から、すべての曲が消え失せてしまうはずである。そこを、もう少し "大人" になり、あるいは、世界中に「自分は天才だ! 」などと "偉大な錯覚" に突き動かされ、励まされながら、書き上げる。こうして曲が残り、その中から、世にいうところの「名曲」も生まれてきたわけなのだ。


 情熱の指揮者/山田一雄

                   岡崎 隆 (名古屋フィルハーモニー交響楽団・コントラバス)

 私は「ヤマカズ先生」の飾らない暖かいお人柄を、1プレイヤーとして心から愛していました。 
 「どぉーーしてーっ!! 、どーしてそんな汚い音だすのよぉ・・・」
小さな体をよじりながら、指揮台の上で叫んでおられた先生。 
昭和64年の名古屋フィル/ニュー・イヤー・コンサートに客演されることが決まり、そのリハーサル時に「エリーゼのために」を、本当に楽しそうに弾き振りされていた先生。
 ゆったりとした旋律を指揮される時など、小柄な身体をさらにかがめて「ウウゥゥゥ・・・・」と唸りながら、クネクネとタクトを捌いていたのに、アレグロに入るや否やその体全体が炸裂、もうバトンはメッチャクチャ!! 、オケは破綻寸前!! ・・・しかし、そこに何と多くの音楽の真実が、溢れていたことでしょう。
 近年、棒のテクニックだけは一人前、でも何が云いたいのかサッパリ判らない指揮者が、特に若手のなかに多いような気がします。彼らは曲の最初から最後まで、顔の表情ひとつ変えることはありません。私にはそれが信じられないのです。
 そんなマエストロ(?)たちと、「さあシゴト、仕事・・・」とついつい義務的に演奏してしまうことが少なくない昨今、私はヤマカズ先生の情熱的で、本当に人間味溢れるタクトを、つい懐かしく思い出してしまうのです。
 前記のニュー・イヤー・コンサートは、昭和天皇が崩御されたため急遽中止になってしまったのですが、これが「ヤマカズ先生」と私との、永遠のお別れになってしまいました。

 ※ ヤマカズ先生と名古屋フィル (2013.6 記)

 ヤマカズ先生とは、我が名古屋フィルも何度かご一緒させていただきました。ライブ録音も多く残っているはずですが、諸般の事情を考えた時、今は発掘されない方が良いかも知れません。
 ヴェルディのレクイエムを指揮された時のことです。第2曲「Dies irae」、会場の客席1階から2階、3階とバンダのトランペットが奏されたあと、オーケストラの金管群がフォルティッシモで吹く箇所の先生の凄まじいばかりのエネルギーに満ちた指揮を、今でも忘れる事ができません。
それは「この瞬間に、たとえ心臓発作で倒れても悔いはない ! 」という、まさに真剣勝負そのものでした。 
 バッハの「マタイ受難曲」のときも、動的で落ち着きのないタクトから、どうしてこんなしみじみとした深い響きが生まれるのだろう、と不思議に感じたものです。 
 チャイコフスキー「1812年」序曲を熱田神宮会館 (!) で練習した時、冒頭のチェロ合奏が終ったあと、先生のアインザッツが分かりにくくて、チェロバスがバラバラになってしまいました。・・・「おや、おやーーー何で合わないのぉー」と、今度はもう少し分かりやすく指揮してくれたように覚えています。
 あと記憶に残っている曲としては、ベートーヴェンの「ミサソレ (ミサ・ソレムニス)」があります。この曲の一番最後のところで急に早くなる箇所があるのですが、ゲネプロの時からここの棒が分かりにくかったかったので、オケではコンマスから密かに「ズレそうになったら私を見て」という約束になっていました。本番では案の定、「ヤバッ!」と言う感じで、ベートーヴェンが一瞬現代音楽のように響きました。 (もともとこの箇所は、そのようなフレーズではあるのですが・・・) でも、何とか止まらず行きました。
 名ソプラノ・伊藤京子さんをお招きしたモーツァルト「エクステルラーテ・ユビラーテ (踊れ喜べ、汝幸いなる魂よ)」では、マエストロ自身がチェンバロを弾かれ、本当に楽しそうでした。その演奏会のメインはマーラーの第4だったと思いますが、今思えばヤマカズ先生ならではのプログラムだったんですね・・・。


 
 ヤマカズ先生/いろいろ



※ 最近、「おほむたから」を指揮されたことがあるという、指揮者の飯守泰次郎氏に、こんなことを伺いました。
 「山田先生はフルトヴェングラーと同じように、常にご自分を作曲家だと認識されていたようですね」

※ 山田氏は自身の代表作「交響的木曽」のフルスコアについて、その著書「一音百態」のなかで、
「戦時中、上海の「上海工部局管弦楽団」の要請に従って原譜を送ったところ、戦争のどさくさの中で紛失してしまった」と書いておられます。ところが同曲のフルスコアは、ちゃんと東京・麻布の「日本近代音楽館」に保管されており、誰でもいつでも閲覧することが出来ますし、山田氏のお宅には、A3よりも大きな「桜版」サイズの上製本の立派なフルスコアがあり、先日私は奥様の御秩子様にお願いして閲覧させていただきました。
 にも拘わらず、上記「一音百態」の中で、「肝心の楽譜が、わたしの手元にもないまま、大げさに言えば "幻の木曽" といったところだろうか」と山田氏は書かれています。この点について、御秩子様にお尋ねしたところ、

「恐らく主人独特の照れもあって、楽譜はちゃんとあるのに「手元にない」と書いたのだと思いますよ」

との事でした。
 因みに「交響的木曽」は、十数年前にアマチュアの新交響楽団によって演奏され、その実況録音CDが、同楽団のたいそう充実した記念プログラムに添えられ、残されています。 また、山田氏が逝去される直前に音楽監督に就任された神奈川フィルハーモニー管弦楽団でも、外山雄三氏の指揮で演奏されたことがあり、同団にはパート譜も保管されています。

 現在私は、山田御秩子様のご承諾をいただいて、山田氏の代表作「交響的木曽」と、氏が心から愛着を持っておられた「若者のうたえる歌」の浄書パート譜の作成をすべく、その準備を進めています。前者については将来、木曽節をテーマとした他の作曲家の作品 (高田三郎「狂詩曲第1番」、須賀田礒太郎「木曽節パラフレーズ」)とともに、実際のコンサートで上演される可能性を探って行きたいと思っています。

※ヤマカズ先生の録音

 残念ながら山田氏はそのご生前、自作の録音をほとんど残されませんでした。
指揮者山田一雄の録音は、その多くが入手困難になっていましたが、近年タワーなどからライブ録音を中心に、次々とリリースされています。
ヤマカズ・ファンなら随喜の涙・・・というところでしょう。ただ氏のタクトで何度も演奏したことがある私としては、ヤマカズ先生のライブは本当に波があり、今リリースされているCDが一体どのくらいのレヴェルのものなのだろう、ということを思った時、正直なところ「恐くて」手を出せません。
 ヤマカズ先生はその生涯を通じ、マーラーの交響曲に情熱を注がれました。発売当時話題を呼んだ都響による録音を中心に、一時「マーラー交響曲全集」としてまとめる動きもあったようですが、アマチュアとのライブ録音しか残されていない曲目もあったため、実現に至らなかったということです。なお新交響楽団とは全曲演奏を行い、CD化もされています。(このセットに特典として「交響的木曽」(指揮/小泉和裕) が添えられています)
 新星日響による伝説の名演 (爆演?) ・伊福部昭の日本狂詩曲のライブや、山野楽器が企画し、その内容が高く評価された「山田一雄の世界」全2巻3枚 (マーラー、バッハ、ブラームス他) も、現在は入手困難なようです。

 ところで、NAXOSによる「日本作曲家選輯」で、2007年5月にレコーディングされたロシアでの一連の録音のうち、ただ一枚リリースが遅れていたヤマカズ先生のCDが、最近ようやく (ひっそりと) 発売されました。

 ナクソス/日本作曲家選輯  山田一雄管弦楽作品集

  大管弦楽のための小交響楽詩「若者の歌へる歌」(1937)、国民詩曲「交響的木曽」Op.12
  (1940)、バレエ音楽「印度」 Op.13、おほむたからOp.20

  ドミトリ・ヤブロンスキー/ロシアpo. ( Naxos/8.570552 J )

NAXOSの日本代理店移行に伴うゴタゴタのせいだとか、名物解説者・片山杜秀氏の原稿がなかなか届かないから等々の噂が世間では流れていましたが、何とかリリースが実現し、喜ばしい限りであります。(案の定、解説は片山氏ではなく、東京藝大助手・三枝まりさん・・・)


スクリーンのなかの山田和男

 1960年初頭に吉永小百合主演で制作された、「父と子の歌」という映画がある。
おそらく今日、この映画のことを記憶しておられる方はほとんどおられないと思うが、この映画のクライマックスシーン=小百合嬢が晴れてチャイコフスキーのピアノ協奏曲を演奏するシーンで、そのバックをつとめていたのが、我が山田和男先生指揮する東京交響楽団である。

 封切当時高校生だった小生は、この映画のことを今も懐かしく思い出す。
スクリーンの中で小走りに指揮台に登場した山田先生は、なんと!! ソリストである小百合嬢を紹介するセリフまでつとめておられる。そして、チャイコフスキーの冒頭を先生が指揮し始めたとき、館内には一斉に笑い声が挙がった。そう、素人にはそれほどユニークで可笑しな指揮姿だったのだ。

 5年ほど前、この映画がテレビでリバイバル放送され、私は万感の思いで鑑賞した。
あらためて見る山田先生の指揮はまことに情感にあふれ、何よりも気力が充実していた。私はオケでその後何度も共演させていただいた日々のことを、懐かしく思い出したのである。
 余談だが、この映画の中で小百合嬢の恋人・浜田光夫が、なんと「チゴイネルワイゼン」冒頭を弾く場面があった。何を隠そう、私はこの映画の中で初めて、この名曲と出会ったのである。もちろん浜田がこの超絶技巧曲を本当に弾いていたはずはないのだが、高校生だった私は見事に騙され、「すごいなあ!!」と思わず溜息をもらしたものだ。(だって、ちゃんとヴィヴラートかけてたんだもん! )

 そんな体験も古き思い出となろうとしていたつい先日、ケーブルテレビで放映された1944年制作の東宝映画「怒りの海」(主演・大河内伝次郎) を何気なく見ていたら、な、なんと!!! ヤマカズ先生が登場したではないか。曲はバッハの「パッサカリアとフーガ」。主人公の大河内が娘役の原節子 (美しい! ) に誘われ、気乗りしないままやって来た演奏会の場面である。この曲がほとんどカットなしで演奏され、「父と娘の歌」の時よりずうっと若くダンディーな先生のアップが何度も登場し、私は感動のあまり、思わず画面に向って手を合わせてしまった。その指揮は、バッハということもあってか、意外にも(?) まことに端正なものであったが、ダイナミックなフレーズの直前などは、あの独特のヤマカズ・バトンが炸裂する。なおこの「パッサカリアとフーガ」は、オルガンの原曲をイタリアの作曲家レスピーギがオーケストラに編曲したもの。作曲者がドイツ、編曲者がイタリア、そして演奏者が日本と、日独伊三国同盟下にあった当時の政治状況が垣間見え、まことに興味深い。そう、1944年と言えば、戦局ますます芳しからず、「一億一心火の玉」となっていた時代で、翌年3月・東京大空襲の直後に、山田氏は日比谷公会堂における日響 (現N響)の定期公演で尾崎宗吉の「田園曲」の初演の指揮をとるのだが、その際の指揮振りもかくやと思わせる、素晴らしい映像であった。
これは単に映画の一場面に決して留まらぬ、貴重なアーカイヴである。
 なお終戦直後で、おそらくニュース映像だと思うが、マーラーの交響曲第8番「千人の交響曲」の本邦初演の際の映像を、何かの番組で見た記憶があるが、まさに鬼気迫る指揮姿であった。

 ところで戦前の映画には、例えば1943年の松竹映画「母の記念日」(主演・信千代) の中で、あのトーサイこと斉藤秀雄がワーグナーの「さまよえるオランダ人」を指揮する場面 (まことに厳格な指揮姿 ! ) や、1945年の東宝映画「音楽大進軍」(主演・古川ロッパ)で、まだ幼い辻久子がクライスラーの「中国の太鼓」を鮮やかに奏でたり、藤原義江が「トスカ」の二重唱を歌う場面など、貴重な映像がポンポン出て来るのに驚かされる。
 願わくばこれらの映像を集大成する企画は無いものだろうか? 
若き日のヤマカズ先生のバッハを是非一人でも多くの人に聴いて、いや見て貰いたいと、私は心から思う。
                     (2005. 1. 6 )


  上記の文章を執筆するにあたり、下記の資料を参考にさせていただきました。


※「一音百態」山田一雄著 (音楽の友社)
※「山田一雄の世界」第1集解説 (山野楽器)
※「日本の管弦楽作品表」(日本交響楽振興財団・刊)

引用・転載を快く承諾くださいました山田御秩子様、音楽の友社様、神奈川新聞様に対し、心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。 


楽譜作成工房「ひなあられ」のページ

(きづかい/音楽エッセイ集)


空腹豚児 (すばらとんこ) のレコード放浪記
二十五年ぶりの再会 〜 バリリの往年の名演を聴いて
バッハ音楽の魅力〜「マタイ」と「ブランデン」


( おことわり) このホームページに記載されている文章等を、無断でプリントアウトしたり、転載・引用しないでください。
お問合せはメールでお願いします。


  パストラーレのホームページへもどる