日本の作曲家たち/ 5 金井喜久子 

                          (1906〜1986) 

                 (写真提供=金井弘志氏/ 以下同じ) 2017.7.10 更新
 
(おことわり/このページに記載されている情報は、すべて金井喜久子様ご長男・弘志様の許諾をいただいておりますので、無断転載等をされないようお願い申し上げます。また文中では金井喜久子様他の敬称を略させていただいております。
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金井喜久子/交響曲第1番 (1940) 、愛知県で77年ぶりに再演 !

 2017年7月9日、金井喜久子の交響曲第1番が愛知県で、初演以来実に77年ぶりに再演されました。
今回は未完の第4楽章のピアノ・スケッチを指揮者・照喜名一男さんがオーケストラ編曲をされ、初の全4楽章上演となりました。
オーケストラに先立ち丹羽亜希子さんの三線が奏でられ、会場に琉球の音色が響きわたりました。
会場には遠路東京から駆け付けられた作曲者のご長男・弘志さんご夫妻の姿も見られました。

 (指揮:照喜名一男/海部交響楽団 Vc. 深谷 展晃)
2017年7月9日(日) 14:00 〜 あま市美和文化会館
 (プログラム)
金井喜久子/歌劇「沖縄物語」序曲 (1968)
金井喜久子/交響曲第2番
(1947)
ドヴォルザーク/チェロ協奏曲ロ短調


金井喜久子/交響曲第2番 (1947)、仙台で再演 !

平成25年度 (公財)アフィニス文化財団 オーケストラ助成「アフィニス エンブレム」 

仙台フィルハーモニー管弦楽団 特別演奏会「日本の現代作曲家」

 (指揮:梅田俊明 Pf:中川賢一)
2013年11月3日(日) 15:00 〜 仙台市青年文化センター
 (プログラム)
金井喜久子/交響曲第2番 (1947)
大木英子/ピアノとオーケストラのための協奏詩曲 「舞い楽」
小出稚子/ケセラン・パサラン
金子仁美/委嘱作品

 金井喜久子の交響曲第2番は、1947 (昭和22) 年11月に日比谷公会堂で開催された「金井喜久子第2回作品発表会」で、服部正/日本交響楽団 (現・N響)により初演された。もし以後再演されていないとすれば、今回の上演は実に66年ぶりとなる。
 戦時中の交響曲第1番 (1940) が作曲の師・呉泰次郎の指示によりドイツ・ロマン派風だったのに対し、この第2番は全曲を通し沖縄の香りに貫かれており、たいそう親しみやすい内容を持っている。今回の演奏はオケの鳴りも良く、曲の全容を知るにはまったく不足のないもの。ただ、沖縄独特のテンポやリズム感の表出まで求めるのは、やはり酷だろうか。さながら「仙台の沖縄人」という趣の演奏であった。
会場には金井喜久子ご長男の弘志氏も東京から駆け付け、レクチャーに参加された。
今回の演奏会は、6月のセントラル愛知交響楽団演奏会と同じく「アフィニス文化財団オーケストラ助成公演」で、日本の女性作曲家を特集したプログラムであった。音楽評論家・片山杜秀氏のレクチャーは、耳馴染みのない作品を聴くにあたりたいそう分かりやすい、いつもながらのサービス精神に溢れたものであった。
金井作品の演奏には、私ども楽譜作成工房「ひなあられ」が作成した浄書譜が使用された。


女性作曲家による日本初の交響曲 = 金井喜久子: 交響曲第1番ハ短調 (1940) 浄書譜完成!!

(2011.4)

 女性作曲家による交響曲としては日本で初めてのこの作品は1940 (昭和15) 年12月20日に日比谷公会堂で行なわれた「呉泰次郎及びその門下生第4回交響作品発表会」において、作曲者自身指揮する中央交響楽団 (現・東京フィルハーモニー交響楽団) により初演されました。
その実況録音がアセテート盤で奇跡的に残され、数年前にCD化され話題を呼びましたが、このたびご長男の金井弘志氏のご依頼を受け、演奏のための浄書フルスコア及びパート譜が完成致しました。なお初演時は第1〜3楽章のみでしたが第4楽章のピアノスケッチも残されており、全4楽章がオーケストラによって初演される日も近いと思われます。
(編成 =  2 -2 -2 -2 , 2-2-2-1, Timp, Str. )

 この交響曲についてのお問い合せはメール (pasAma.medias.ne.jp /「A」をアットマークに変えて下さい。) でお寄せください。
 (楽譜作成工房「ひなあられ」岡崎 隆)

金井喜久子・著書のご紹介

     
  
「琉球の民謡」 (音楽の友社・刊)

 昭和29年(1954年) 刊行。翌年、第9回毎日出版文化賞を受賞。金井喜久子さんが2年余にわたって五線譜に採譜した琉球民謡が全部で78曲収録され、併せて詳細な解説と年表が記されています。この書は永く絶版となり幻の名著として、古書市場では法外な値段で取引きされて来ました。今回ご紹介するのは2006年3月、金井喜久子さんのご長男・弘志さんのご尽力で再版されたものです。

「ニライの歌」 (琉球新報社・刊)

 この著は1978年5月から4か月にわたって琉球新報に連載された金井喜久子さんの自伝を、2006年の生誕100年を記念して単行本化したものです。「琉球文化を卑下する明治期以降の風潮に抗い、逆に沖縄音楽の神髄を五線譜に載せて内外に伝えた情熱と信念の作曲家」(琉球新報/比嘉辰博氏) 金井喜久子さんが自ら綴るドラマティックかつ感動的なエピソードの数々は、私たちの心を熱く捉えずにはおきません。

 この2册の金井喜久子さんの著書を、ご希望の方に発送させていただきます。
(「琉球の民謡」= 2,400円、 「ニライの歌」= 2,000円 /各送料別 )
 また金井喜久子さんの譜面についてのお問い合わせも、当ページで受け付けております。
 お問い合せはメール (pasAma.medias.ne.jp /「A」をアットマークに変えて下さい。) でお願いします。

金井喜久子/演奏会の記録 (2005〜8)
金井喜久子/浄書スコア・パート譜情報

片山杜秀氏、自著「音盤考現学」で金井喜久子CDを紹介。

    

 (画像転載許諾/アルテス・パブリッシング)       (画像転載許諾/キングレコード)

 日本の作曲家について熱い評論活動を続けている音楽評論家・片山杜秀氏が「レコード芸術」誌に連載していた文章をまとめた書物「音盤考現学」(アルテス・パブリッシング社・刊) で、金井喜久子CDについて触れているので、ここにご紹介したい。
 それは「幻の作曲私塾」と題した文章で、金井喜久子の作曲の師・呉泰次郎が大平洋戦争直前に実践した、当時としてはまことにユニークな教育活動を紹介している。呉泰次郎 (1907〜71) は早くから数多くの交響曲を発表し、日本で初めて本格的なヴァイオリン協奏曲を書き、管弦楽曲「主題と変奏」がワインガルトナー賞で第一位を獲得するなど、戦前を代表する作曲家の一人であったが、教育活動にも多大な労力を注いだ。当初呉は母校・東京音楽学校の専科で教えていたが、同校を退職後作曲私塾を開き、教え子にドイツ・ロマン派を基調とする厳格な作曲理論を教えた。そして弟子たちに積極的に交響曲などの管弦楽作品の作曲にチャレンジさせ、1937 (昭和12) 年からは毎年、何と自費でオーケストラを雇い、初演までさせていたのである。戦争の足音が迫りつつあったこの時期、ここまで献身的に音楽教育活動を行った人物が、他にいたであろうか。そしてその呉泰次郎が1940 (昭和15) 年12月20日に日比谷公会堂で行なった管弦楽作品発表会の実況録音が、アセテート盤で奇跡的に残されていたのである。女性としては我が国初となる本格的な交響曲 (第1番ハ短調) の録音・・・それは作曲者・金井喜久子自身が指揮する中央交響楽団 (現・東京フィルハーモニー交響楽団) によって演奏された。「大連出身のドイツびいき作曲家が主宰した驚きの音楽塾、そこに民族主義的作風をめざす琉球人女性が学び、そして生まれた日本人女性作曲家初の交響曲、そのライブ録音の奇跡的発見と復刻・・・・・。日本近代史を語るうえで不可欠なディスクである」と語る片山氏の文章は、まことに説得力のに富んだものだ。
 是非、一人でも多くの皆さんのご一読をお薦めしたい。 (2008.4.11)


  沖縄のこころを伝える作曲家=金井喜久子

            

 5年ほど前のことである。CDショップの一角に、たいそう珍しいCDが置かれ、好楽家たちの注目を浴びていた。

(「金井喜久子/母と子の沖縄のうた、交響曲第1番ハ短調」
CDジャケット/写真提供=キング・キング・インターナショナル)

「金井喜久子/母と子の沖縄のうた、交響曲第1番ハ短調」と銘打たれたそのCDを何気なく手に取った私は、思わず息をのんだ。何とそこには、日本が大平洋戦争に突入するちょうど1年前の1940 (昭和15) 年12月20日に、東京・日比谷公会堂で行なわれた「呉泰次郎及びその門下生第4回交響作品発表会」のライブ録音が収録されているではないか。それは、これまで女性作曲家としては日本で初めての交響曲とされて来た金井喜久子の「交響曲第1番」が、作曲者自身の指揮/中央交響楽団 (現・東京フィル) の初演時の演奏だったのである。
 よくぞこの時期にこのような演奏会が行なわれ、しかも録音まで残されていたものだ、と私は感慨を禁じ得なかった。なぜならば当時は時節柄、歌舞音曲の上演には厳しい制約が課せられ、国策に沿わない不要不急のコンサートの開催など、事実上不可能であったからだ。これはおそらく、当時東京音楽学校で作曲を教えていた呉泰次郎の力があったのだろう。呉泰次郎は現在では全く忘れ去られているが、日本交響楽振興財団・刊「日本の管弦楽作品表」によれば、恐らく我が国で最も早い時期にヴァイオリン協奏曲 (イ長調/1935年)を書いたのをはじめ、8曲にも及ぶ交響曲のほか、実に数多くの管弦楽曲を残している作曲家だ。私は呉の作品を日本近代音楽館で、たった1曲だけ聴いた事がある。それは1939 (昭和14) 年にワインガルトナー賞を受賞した「主題と変奏曲ニ短調」の初演当時のSPだ。なかなか渋い、ロマン派風の曲であったことを覚えている。
 ところで注目の「交響曲第1番」は、可搬式録音機による記録のためだけの録音という事もあり、当時の水準からみても音は極端に貧しい。またオーケストラの技術も、今の耳で聴くとかなり聴き辛い。しかし、そういったマイナス要因を越えたオーラのようなものを、私はこの演奏から感じた。それは録音の端々から感じられる、1940年代の我が国の音楽状況の「空気」のようなものなのかも知れない。

 なお金井喜久子の「交響曲第1番」は従来、女性作曲家による日本で初めての交響曲と言われて来たが、厳密にはそれよりも25年も前の1915 (大正4) 年に、幸田延 (1871〜1946/幸田露伴の妹) が大正天皇即位奉祝のための交響曲「大礼奉祝曲」を作曲している。ただ幸田の作品は、混声4部合唱を伴う「交声曲」とも言うべき作品で、またヴェルクマイスター等の助力も考えられるため、金井の交響曲こそ、作曲者自らの力のみで産み出された、純粋な器楽作品としては「女性初の交響曲」と言うべきであろう。 

 「金井喜久子/母と子の沖縄のうた、交響曲第1番ハ短調」CDを聴いてから2年の月日を経たある日、私のもとに一通のメールが届いた。それは私のホームページをご覧になった海外在住の方からのもので、「金井喜久子の歌曲に魅せられているが、楽譜を入手するにはどうしたら良いだろうか」という問い合せであった。
 このメールがきっかけで、私は金井喜久子の他の管弦楽作品について知りたい、と強く思うようになった。そこで日本近代音楽館のご紹介で金井喜久子のご遺族・金井弘志氏にコンタクトを取ったところ、氏は快くご自宅に大切に保管されている膨大な楽譜を見せてくださった。その折りに前年那覇で開催された「沖縄の歌と踊りのつどい」のビデオを拝見し、金井作品の全編に溢れる「沖縄の香り」に、私はただただ圧倒された。藍川由美氏による歌曲集「沖縄の歌」のインパクトのある歌唱、そして地元・沖縄交響楽団による「沖縄奇想組曲」「琉球舞踏組曲」はいずれも濃厚な沖縄色に満ちており、前記の「交響曲第1番」との隔たりを感ぜずにはいられなかった。

 ここで私は、ノルウェーを代表する作曲家・エドゥアルト・グリークを、ふと思い出した。
若き日のグリークはドイツのライプチヒ音楽院に学び、21歳の時に習作ともいえる交響曲ハ短調を作曲している。ところが後になってグリークはこの交響曲の楽譜を封印してしまい、「決して演奏してはならない」と言い残したという。
Edvard Hagerup Grieg (1843〜1907)

 一方の金井喜久子が前記の「交響曲第1番」を発表したのは36歳の時。初演後、金井はこの曲について触れられるのを嫌がり、やはり封印してしまったという。
グリークと金井に共通する要素は多い。まず二人の習作は共に交響曲であったということ、そしてそれが共にドイツ・ロマン派風の作風で書かれているということ。そして二人とも後に、自らの交響曲を封印してしまったということ。そして二人とも「国民楽派」とも呼ぶべき民俗色の強い作品を書くようになって行ったということである。
 日本の作曲界ではその草創期から、西洋音楽の技法と日本古来の音楽との融合を目指す作曲家は多かった。だが戦前・戦後を通じ、これまでに純然たる「日本国民楽派」と呼べるほどの潮流があったとは言いにくい。
 しかし、こと金井喜久子に関して云えば、その作品の大半が彼女の故郷・沖縄音楽の伝統を基調としており、「沖縄国民楽派」と呼ぶに相応しい業績を残しているのだ。グリークが故郷ベルゲンで幼い頃から耳に親しんだノルウェー民謡を終生愛したように、金井喜久子も故郷沖縄で育まれた沖縄民謡が常にその創作意欲の原点となったのではあるまいか。

 金井喜久子は1906年 (明治44年)、宮古島で県会議員を勤めていた父・川平朝儀と母・オミトの間の3女として生れた。川平家は琉球王朝の芸能奉行をつとめた名門で、喜久子も8才の時から琴を習い、沖縄第一高等女学校在学中の13才の頃からヴァイオリンを習い始めた。その頃から次第に洋楽に興味を抱いて行く。ある日学校の音楽室で沖縄民謡「浜千鳥」をピアノで弾いていた喜久子は、猛然と駆け付けた女教師から思いもかけぬ叱責を受けてしまう。
「そんな下品な沖縄の唄など、ピアノで弾いてはいけません。良家の子女や名門校の生徒がやるものではありません!」
あわててピアノの蓋を閉じた喜久子であったが、胸の中に込み上げるやるせない思いを抑える事が出来なかった。
「・・・ドイツやイタリアの民謡、そしてアメリカの黒人霊歌だって堂々と教科書に載っている。どうして沖縄の民謡だけが下品で恥ずべきものなのだろう? この「浜千鳥」はそれらに決して劣らない素晴らしい音楽なのに・・・よし、私はこれから沖縄音楽の素晴らしさを日本中に、いや全世界に広めていこう」
喜久子の沖縄音楽に対する指向は、この事件によって決定的なものとなった。

 1927 (昭和2) 年、周囲の猛反対を押し切って上京した喜久子は、中野音楽学校声楽科に入学、声楽と共にピアノも習い、その後東京音楽学校 (現・東京藝術大学) 作曲科に進み、下総皖一、呉泰次郎に師事、その後尾高尚忠に管弦楽法を、平尾貴四男に対位法その他を学んだ。この間、東京商大でトロンボーンを吹いていた金井儼四郎と出会い、1932 (昭和7)年に結婚。儼四郎は喜久子の終生の良き理解者・協力者となった。
 1938 (昭和13) 年、東京音楽学校研究科 (現在の大学院) を修了した喜久子は1939 (昭和14) 年、「呉泰次郎及びその門下生第3回交響作品発表会」において「月夜」「銀杏」という2曲の歌曲を発表したのを皮切りに、旺盛な創作活動を開始する。1940 (昭和15) 年12月、「同・第4回交響作品発表会」で、日本の女性作曲家としては初となる「交響曲第1番」を自らの指揮で初演した。だが、この交響曲は師・呉泰次郎の指示により、ドイツ・ロマン派風の作品であった。
「沖縄のこころを伝える曲が書きたい!」
喜久子のこの思いは翌41年の発表会で見事実現する。それが交響詩曲「琉球の思い出」である。この作品は「鳩間節」「むんじゅる」「かなよー」の3曲の沖縄民謡が主題として使われており、茫漠たる沖縄の日の出を思わせる序奏の和音の中から3つの民謡の断片が次々に表れ、それらが次第に高まって行くという構成でたいそう分かりやすく、またオーケストレーションもシベリウスの「タピオラ」を連想させるクロマティックな部分など、喜久子の若々しい意欲的な情熱が曲の至る所に横溢した佳作である。
 敗戦の様相がだんだん色濃くなっていた1944 (昭和19) 年3月、喜久子は果敢にも自作のみの演奏会を企画する。それが、日比谷公会堂での「金井喜久子第1回作品発表会」である。この演奏会のために喜久子は「琉球舞踏組曲」交響詩曲「宇留間の詩」の2曲の管弦楽曲を新たに作曲した。
「こんな非常時に音楽会を催すとは、何たる非国民か!!」
と非難する声が当たり前だった中、また折からの豪雨にも拘わらず、会場は開演30分前にはすでに超満員となっていた。ところが指揮者・尾高尚忠が会場に現れない。突然の応召のため出演出来なくなったのだ。急遽指揮台に押し出された喜久子は、無我夢中で指揮棒を振り降ろした。最後の曲を振り終え、足をがたがたと震わせながらお辞儀をする頃には、会場は万雷の拍手に包まれていた。
「よかった、成功したのだ」・・・喜久子はこの演奏会のことを「敵前演奏会」と呼び、熱い眼差しで自分の作品を聴き、惜しみ無い拍手を送ってくれた数多くの人たちの情景を、その後も折に触れて懐かしく語っていたと言う。
「どんな困難なことでも、多くの人々が望み、喜んでもらえる事であるならば、「絶対成功させる!!」という強い意欲と情熱さえあれば、必ず上手く行く」
・・・そんな喜久子の生き方はその後も多くの人たちを驚かせ、あたふたとさせ、そして最後にはすべての人々を大きな感動に包んで行ったのである。

「第1回作品発表会」で指揮する金井喜久子 (1944年3月/日比谷公会堂)

 終戦後、次々と明らかとなった故郷・沖縄の惨状に、喜久子の胸は強く痛んだ。
開戦間もない昭和17年1月、夫と共に一度帰省したきりであった沖縄では多くの人々が傷つき、貴重な生命を落としていた。沖縄の人々を、少しでも励ますことは出来ないものだろうか・・・そんな思いを抱き続けていた喜久子は1946 (昭和21) 年11月21日、日比谷公会堂で行なわれた「美しき琉球民謡による歌と管弦楽と舞踏の会」(服部正指揮/青年日響)のために、1曲の管弦楽作品を書く。交響詩曲「梯梧の花咲く琉球」と題されたこの作品は、曲の冒頭から沖縄民謡の調べをを取り入れ、その叙情的な美しさは比類がない。まさに交響詩曲を代表する名作である。
 翌1947 (昭和22) 年11月には「金井喜久子第2回作品発表会」を服部正/日本交響楽団 (現・N響)にて日比谷公会堂で開催。この時に初演されたのが琉球狂詩曲第1番交響曲第2番である。交響曲の方は前作とは異なり、喜久子本来の持ち味とも言うべき沖縄色に溢れている。
 1950 (昭和25) 年、作曲家集団「白涛 (はくとう) 会」結成に参加。当時作曲家達の間で嵐のように吹きすさんでいだシェーンベルクに代表される「12音技法」の旋風にも巻き込まれる事もなく、喜久子はその後も沖縄の民謡を題材とした作品を次々に産み出して行った。

           

       (作曲家集団「白涛 (はくとう)会」のメンバーとともに
         写真後列左より小山清茂, 渡辺茂, 平井康三郎, 
         前列左より山本直忠, 金井喜久子, 石井五郎) 

 1956 (昭和31) 年、マーロン・ブラントが主演するアメリカMGM映画「八月十五夜の茶屋」のための音楽を作曲、また1960 (昭和35)年には、歌舞伎座で上演するための「唐船物語 (悲恋唐船)」の音楽を、そして1963 (昭和38) 年にはオペレッタ「戻り笠籠」を作曲した。同年刊行された冨樫康著「日本の作曲家」で、喜久子は自身の音楽について次のように述べている。

「私の作品は、主に琉球を歌ったのが多い。それは私の作曲への動機が、沖縄民謡への愛情から発足したためである。私は自分の心のままに書き続けようと考えている。古いとか、新しいとか、4度音階とか、12音音階とか、声5音階とか地音階とか、フランス的とかドイツ的とか、一切気にとめないでひたすら世界の沖縄的でありたいと念願している。国際的に美しくありたいために、出来る限りの技術技巧の勉強は大いにしたいと毎々努力している」

 喜久子の胸には常に、戦争で傷ついた故郷・沖縄があった。
米軍上陸による地上戦で20万人もの人々が命を落とし、喜久子の母校・沖縄第一高女の後輩たちも「ひめゆり学徒隊」となって若い命を散らしていた。喜久子は東京に住んでいても片時も故郷・沖縄の事を忘れる事はなかった。
 長男・金井弘志はふりかえる。

「戦後、母は事ある毎に国会議員たちを訪ね、米軍に支配された沖縄の窮状や、ひめゆりの悲劇を訴えていました」

 1968年、喜久子はグランド・オペラ「沖縄物語」を作曲する。このオペラの舞台は中世の琉球。平和に暮していた若い夫婦の妻がある日、中国から瓦作り指導のためにやって来た悪辣な役人に目をつけられ、とうとう役人の妾として捕われてしまう。夫は必死で抵抗するが、どうにもならない。数年後偶然、大きく成長した子供と巡り会った妻は「元の家に帰して!!」と役人に懇願するが、まったく聞き入れて貰えない。絶望の淵に追いやられた妻はついにある嵐の激しい夜、荒れ狂う海に身を投げてしまう・・・という大悲恋物語である。
 このストーリーの登場人物だが、妻=沖縄、夫=日本、中国の役人=アメリカをそれぞれ連想させるように仕組まれており、沖縄が置かれた理不尽な立場を広く訴える内容となっているのだ。
「このオペラ公演に首相を呼べば、必ずや日本全国の目を沖縄に向けて貰えるに違いない」と考えた喜久子はある日、何とアポ無しで弟子と二人で首相官邸に乗り込む。当時の佐藤栄作首相への面会を求め、受付でチラシ片手に小一時間も待ち続けた喜久子であったが、やはり願いは果たせなかった。しかし「沖縄のためなら何でもする」という喜久子の強い思いは多くの人々の心を揺り動かし、オベラは大成功であった。
 その最晩年、喜久子は「ひめゆり記念館」建設にも並々ならぬ力を注いだ。

     

 (黛敏郎と/日本教育TV出演時)     (ソプラノ・砂原美智子と/沖縄TV出演時)



 近年、沖縄音楽が様々な場所で注目を集め、沖縄風を装ったクラシック作品も発表されている。
しかしまことに残念ながら、真に沖縄音楽の真髄を理解し作曲された作品は皆無と言って良い。それだけに「ウチナンチュ」として沖縄の伝統音楽と洋楽との融合という壮大なテーマに取り組み、大きな成果を残した金井喜久子という作曲家を、私たちは今日改めて見直さねばならないのではないだろうか。

                                (2011.1 岡崎 隆)


(生涯の良き理解者・夫儼四郎と自宅で)


 金井弘志氏のご協力を得て、私は昭和22年に作曲された交響詩曲「梯梧の花咲く琉球」という管弦楽曲の演奏用パート譜の作成を行なわせていただいた。この曲はNHKの委嘱により作曲された約8分強の小品で、初演以後は再演の記録もなく、また録音も残されていない。全曲を通じて沖縄風の親しみ易いメロディーがあふれており、フィナーレのダイナミックな迫力も実に素晴らしく、このまま埋もれさせておくには余りに勿体ない佳曲だ。
 昭和22年といえば沖縄は未だ戦火の傷痕も生々しかったことだろう。古き良き沖縄の一日も早い復興を願いながら書かれたに違いないこの作品が再演されることを、私は心から願ってやまない。
 引き続き交響的序曲「宇留間の詩」(1944/52改訂) や大作「交響曲第2番」(1947)、「琉球の思い出」(1941)、「沖縄奇想組曲」「ピアノ五重奏曲」(1966)、ピアノと8つの楽器のための「琉球綺想組曲」の浄書譜も完成した。
これらの作品の今後の上演が待たれる。

 (金井喜久子の楽譜についてのお問い合せメール (pasAma.medias.ne.jp /「A」をアットマークに変えて下さい。) でお願いします。)
                      

上記の文章を執筆するにあたり、下記の資料を参考にさせていただきました。

「ニライの歌」(金井喜久子・自伝) (琉球新報社・刊)
「琉球の民謡」(金井喜久子=著) (音楽の友社・刊)
「金井喜久子/母と子の沖縄のうた、交響曲第1番ハ短調」CD (キングインターナショナル)
「第53回NHK沖縄の歌と踊りのつどい」プログラム
「第二回 白濤会發表會 プログラム」(1951.4.12 読売ホール)
「母は太陽、沖縄交響楽」(金井弘志/日本経済新聞社/2002年4月24日/文化欄)
「愛のトゥバルマー〜ある歌姫の物語」(金井喜久子=著/朝日新聞東京本社編集・制作)
「素顔の自画像」(金井儼四郎=著/金井弘志・刊)
「日本の作曲家」(冨樫康=著/1956年/音楽の友社)
「日本の管弦楽作品表」1912〜1992 (楢崎洋子=編著/R日本交響楽振興財団・刊)
「女性作曲家列伝」(小林緑=編著/平凡社選書)
「日本の作曲20世紀」(音楽の友社・刊)
「ニッポン人・脈・記〜五線紙に吹く沖縄の風」(朝日新聞文化欄/吉田純子・著)

金井喜久子/管弦楽曲一覧 (2008.1.12改訂)
(おことわり/本文中では金井喜久子様他の敬称を略させていただいています。ご了承ください)

( おことわり) このホームページに記載されている文章等を、無断でプリントアウトしたり、転載・引用しないでください。
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