日本の作曲家たち/ 10 鬼頭恭一
(1922.6.10 〜 1945.7.29) 2023.9.19 更新
一種軍装 (七つ釦) 姿の鬼頭恭一 (オリジナル写真の汚れを修正したもの)
この文章を記すにあたり、鬼頭恭一氏についての講演会の録音テープを提供くださいました音楽の世界社の小宮多美江様、数多くの資料をお送りくださいました佐藤正知様・明子様ご夫妻
(鬼頭恭一氏ご親族)、鬼頭正明様 (鬼頭恭一氏・甥)、橋本久美子様 (東京藝術大学音楽学部大学史史料室)、讃井優子様
(讃井智恵子様ご親族) 、大中恩様
(作曲家。鬼頭恭一・同期生)、そして貴重な情報をお寄せ下さいました秋水会事務局の柴田一哉様に、心より御礼申し上げます。
なお文中では鬼頭恭一氏はじめ、皆様の敬称を略させていただいております。また姓・お名前のみを表記をしている箇所もありますが、どうぞ悪しからずご了承下さい。
( 2023.9.19 岡崎 隆 )
拙ホームページへのお問合せは TEL 090-8458-8521 (楽譜作成工房「ひなあられ) 又はメールでお願いします。
*鬼頭恭一/「戦後70年と新たな楽譜発見」の経緯を多数追加しました。
* 〜 思い出すままに 〜 ( 佐藤正知・明子
)
鬼頭恭一の従弟で日本大学名誉教授・佐藤正知さんご夫妻 (奥様の明子さんは恭一氏の実妹)
が、拙ページに文章をお寄せ下さいました。(2015.3.1/2023.9.18追記)
* 鬼頭恭一が妹に宛てた葉書5葉をUPしました。(2017.5.9
改訂)
*恭一の名古屋の実家が空襲で焼失した際の詳しい模様を、実妹・明子さんに伺いました。
(2023.8.8)
*鬼頭恭一の新しい写真を加えました。(2023.8.11)
*歌曲「雨」について、恭一の従弟・佐藤正知さんの新たな解釈を加えました。 (2023.9.8)
* 鬼頭恭一の歌曲「雨」の音源
をUPしました。(2017.4)
ソプラノ: 三宅 悦子、ピアノ:佐藤 明子 (1975年9月22日 録音)
* 鬼頭恭一が婚約者に宛てた手紙 (昭和19年秋)
をUPしました。(2017.4)
*鬼頭恭一/作品一覧 (2018.2.13現在)
* 鬼頭恭一と九州・築城海軍航空隊で交流のあった讃井智恵子「霞ヶ浦追想」、「ただ一人の弟子」、代田良「惜別の譜」
全文を掲載しました。(2015.11.18)
(鬼頭恭一関連の催し/報告 )
本年(2023年)は学徒出陣80年にあたります。
8月5日に東京で鬼頭恭一を取り上げた複数の催しがありました。
1. 戦没学生のメサッセージ (声聴館アーカイブコンサート。)
8月5日 14:00 開演 (東京藝術大学音楽学部内第6ホール)
鬼頭恭一/歌曲「雨」、「鎮魂歌(レクイエム)」
永井和子 (メゾ・ソプラノ / 他 )
主催/東京藝術大学演奏藝術センター(Tel. 050-5525-2300)
東京藝術大学音楽学部
東京藝術大学HP = www.geidai.ac.jp
2. 無念の五線譜 (戦没音楽学徒が遺した平和の調べ)
8月5日 15:00、18:00 開演 (2回公演)
(東京都杉並区 座・高円寺2)
鬼頭恭一、村野弘二作品の演奏を交えつつ、朗読で彼らの短い生涯を辿ります。
主催/朗読グループ SWIMMY (Tel. 03-5934-7659)
1945 (昭和20) 年6月、九州の築城海軍航空隊基地で、鬼頭恭一と奇跡の再会を果たした東京音樂學校選科の同期生・讃井智恵子の残した文章が、ご親族の讃井優子さんによって出版されました。(「ある理事生の記憶」/一粒書房/定価500円+税)
鬼頭恭一についての文章は、すでにこのHPで紹介させていただいておりますが、その他にも同時代の貴重な証言が収められています。
この本に付いてのお問合せはこちら
鬼頭恭一作品の浄書譜のPDFをアップしました。
(2018/楽譜作成工房「ひなあられ」制作)
「雨」冒頭ページ
また、2015 (平成27) 年12月15日に名古屋で行われた「鬼頭恭一 メモリアルコンサート」の際、弦楽に編曲された楽譜も、鬼頭が残した全創作スケッチと共に、こちらに公開しております。
この譜面を用いての演奏を歓迎します。その場合はご一報ください。
(岡崎 隆)
(写真提供/佐藤正知、明子)
終戦目前に才能を断たれた名古屋出身の作曲家・鬼頭恭一
1. プロローグ
今 (2023 年)から30 年近くも前のことだ。筆者は本業のオーケストラ演奏のかたわら、東京・芝にあった日本近代音楽館に頻繁に出入りしていた。ある日、音楽の世界社の小宮多美江さんからお声がかかった。
「あなた確か名古屋だったわね。この作曲家のこと一度調べてみたら? 」
その手には一本の古ぼけたカセットテープがあった。それが鬼頭恭一との初の出会いだった。
この時、まさかこの作曲家が私の人生の大きな部分を占める存在になろうとは、想像だにしなかった。
テープには、先の戦争で僅か23才という若さで生命を断たれた鬼頭恭一という名古屋出身の作曲家の生涯が実弟の鬼頭哲夫氏により語られ、末尾に海軍航空部隊の訓練中に作曲したという歌曲「雨」が収録されていた。
拙「日本の作曲家たち」シリーズに、この鬼頭恭一という作曲家を取り上げる事は、そぐわないかも知れない。というのは、現在確認されている恭一の作品はこの「雨」と、1942年2月に戦死した従兄弟に捧げられた「レクイエム
(鎮魂歌)」、そして2015 (平成27) 年7月に発見された3曲と編曲が1つしか残されていないからだ。
しかし私は、時代の逆境により無惨に命を断たれたこの才能溢れる作曲家のことを、同じ名古屋地域に住む者として一人でも多くの人に知っていただきたいという思いから逃れる事が出来なかった。
そこで「何かしらの情報が得られれば」と、鬼頭恭一のホームページを開設した。
名古屋周辺には「鬼頭」姓が多い。鬼頭さんという方に出会うたび、「鬼頭恭一をご存知ですか?
」と訊ねた。
しかし何の情報も得られないまま、空しく10年の時が流れた。
「この作曲家とは、もう永遠に縁がなかったのかもしれない・・・」
そう思いかけていた頃のことだ。「秋水会」の事務局員をつとめておられた西東京ITサービスの柴田一哉さんから、突然メールをいただいた。
柴田さんはロケット戦闘機「秋水」関係者の消息を調べておられ、同会には鬼頭恭一についての情報もあった。私は驚喜した。
上記のカセットテープを頼りに、柴田さんによる鬼頭恭一のご家族・関係者の調査が始まった。後で伺ったところによると柴田さんは電話帳を手に、名古屋の「鬼頭さん」に片っ端から電話をされたという。しかし、確たる情報はなかなか得られなかった。
2014 (平成26) 年末、鬼頭恭一は戦前の名古屋地域で清酒「大関」の卸しを手掛けていた酒問屋「京枝屋」の長男である、という事が判った。それをきっかけに、遂に恭一の関係者に辿り着く事ができた。実妹で現在東京にお住まいの佐藤明子さんは「まるで奇跡のよう」と仰ってくださったということだ。
その後、明子さんの夫で恭一の従兄弟にあたる正知さんから様々な資料が送られて来た。カセットテーブに収められていた講演は1998
(平成10) 年8月20日、名古屋大須ロータリークラブ例会で「若き戦没音楽学生の遺したもの」というテーマで、同クラブ前会長の鬼頭哲夫氏によって行われたものであり、歌曲「雨」の録音は1975
(昭和50) 年9月23日に名古屋で開かれた「鬼頭さんをしのぶ会」で流すために同22日、東京・東玉川の部屋で録られたものだ、ということも判明した。この録音は恭一の東京音楽学校選科の同期生・讃井智恵子さんの依頼を受け行われたもので、収録にあたってピアノを担当した佐藤明子さんは仕事を中断し、歌の三宅悦子さんと共々全身全霊をかけて取り組まれたということだ。
恭一の写真とも初めて対面した。
「何と純粋な顔をされているのだろう・・・」
万感の思いが迫って来た。10年以上空欄だった拙ホームページ冒頭に、ようやく恭一の写真が掲載できる・・・私はこの日を、ずっとずぅーっと待っていたのだ。
佐藤様から送られた「雨」の自筆譜をもとに、さっそく演奏用浄書譜の作成に取りかかった。
その過程で、作品に込められた恭一の強い「思い」に、ただただ圧倒された。戦死者の遺骨が帰ってくる場面の何と激しく、また悲しい事だろう。戦争の悲惨さ・理不尽さを痛々しいまでに表したこの作品を、折しも戦後70年を迎える2015
(平成27) 年、何としても再演させなければいけない、と思った。
名古屋にかつてこのような作曲家がいたこと、そしてその溢れる才能は戦争により無惨に断たれたという事実を記憶の片隅に留めていただけるならば、まことに幸いである。
鬼頭恭一は1922 (大正11) 年6月10日、名古屋中心地で酒問屋「京枝屋」を営む父・儀一、母・成子の四人兄妹の長男として生まれた。(血液型
= O 型)
鬼頭恭一・幼時 (写真提供/鬼頭正明)
彼は幼い頃から「珍しいもの、新しいもの」を好み、やりたいことや欲しいものはとことん追求しなければ気が済まない「やんちゃくちゃ」(当時の名古屋弁)
な腕白小僧で、しょっちゅう両親を困らせていた。科学雑誌「子供の科学」を定期購読し、二才年下の弟・哲夫を巻き込み模型飛行機や発電機、モーターなどの制作に夢中になり、時には手製地雷などを創作し野外で爆発させ、大人たちを驚かせる事もあった。一方、JOCK
(現NHK名古屋) にハーモニカで出演したり、子供劇団に参加して主役を演じたりしている。
恭一、弟・哲夫、母・成子 (写真提供/鬼頭正明)
勉強などまったくしなかったにもかかわらず (哲夫氏・談) 、1935 (昭和10)
年、名門・愛知一中
(現・旭ヶ丘高校) に合格する。進学してからの恭一は相変わらず勉強はそっちのけで、自分の好きな事だけをやる不良少年であった
(同)。しかし正義感は人一倍強く、同級生にビンタを喰らわせた教師に詰め寄り、謝罪を勝ち取った事もあるという。
そんな恭一が四年生の頃突然「音楽で身を立てる」と言い出す。その思いは一途なもので、他の教科に全く興味を持たなくなるほどであった。恭一の弟・哲夫によれば、母・成子の親戚に邦楽を業とする者がおり、鬼頭家のような商家では習い事をするのが一般的であった。ただ恭一は子供の頃から、邦楽よりも西洋音楽に興味を持っていたという。妹の明子さんは「実家近くの名古屋・栄にキリスト教会があり、幼き日にそこで聴いた讃美歌が兄の心の奥にずっと残っていたのでは」と語っている。
人生で最も感受性の鋭い時期に、音楽への志向が一気に華開いたのかも知れない。
子供の頃はあまり弾かなかったピアノのレッスンを受けるため、出かける時商家の玄関からでは気まずいので、二階の裏窓から外出着と楽譜を縄で吊り下ろしたあと下着に近い格好で家を出、外で服を着てレッスンに通い、また何食わぬ顔で帰り荷物を二階に吊り上げたということだ。
愛知一中
の制服を着て
(写真提供/鬼頭正明)
1940 (昭和15) 年3月、落第スレスレの成績 (哲夫氏・談) で愛知一中
を卒業した。
明治25年に祖父が創業した酒問屋を継げと説得する両親に対し、恭一はある秘策を講ずる。
「早稲田の商学部受験のための予備校に通いたい」と言って上京したのだ。
ところが恭一の本当の目的は上野の東京音樂學校(現・東京藝術大学音楽学部)
受験であった。
だが残念ながら不合格となり、田園調布にある親戚・佐藤家に身を寄せ、さらに本格的な音楽の勉強を開始する。
当初は驚き猛反対していた両親も、やがて息子の強い決意を知って家業を継がせる事をあきらめ、ついにはその学費の支援をすることとなる。かつて文士に憧れ、祖父が興した酒問屋を継ぐ事に抵抗を持った経験がある父・儀一は、恭一に若き日の自分を重ねていたのかも知れない。
両親からピアノを買ってもらい、練習に励む日々が始まった。同居し交流を持った従弟の佐藤正知は、この頃の恭一について次のように語っている。
「念願だった音楽の勉強に専念できる喜びに溢れていました。
上機嫌で口笛を吹き、「君たち兄弟(次男・正昭、三男・正知)をテーマにしたオペラ「アキちゃんとトモちゃん」を書くつもりだ」と、冗談だか本当だか分からない事を言われました」
同年9月7日、恭一は東京音樂學校・選科に入学する。当時の「選科」はお茶の水にあり「上野の分教場」とも呼ばれ、子供から音校受験生、社会人まで広く門戸を開き専門実技を教えていた。
翌16年、やはり「選科」に入学した讃井 (さぬい) 智恵子は、その時の模様を次のように記している。
「入学式のとき、黒い詰衿の学生服を着た、作曲科の男の子がいた。童顔の、いやに生っ白いのが印象に残っていた」
やがて恭一は親戚宅近くの借地に小さな家を建ててもらい、遠縁の叔母の世話を受けながら選科のレッスンに通うと共に、ピアノを水谷達夫、作曲を細川碧の個人教授で勉強を重ねた。ただ毎日毎日あまりにも熱心にピアノを弾き続けたため、近所から「時局柄不謹慎である!
」と新聞に投書されたりもしている。
「コマタオトノスケ(駒田音之助?)という名前の投書だ。<困った音>のつもりだろう。住所は書いてないが、向かいのおやじにちがいない。ピアノなんぞに現をぬかすとは時節柄怪しからぬことだとほざいておる」
冷房などなかった防音処理のない家で、夏などは戸を開け放したままで夜昼と無くガンガンやられては、向かいの人たちもさぞや腹が立ったことだろう。
「ピアノを弾いて何が悪いんだ!」
「戦時下の風潮に、一人で反発していたのかも知れません」 従兄弟の佐藤正知は述懐する。
この頃満州国建国10周年奉祝楽曲の募集があり、恭一はそれに応募し入選、満州国より七宝焼の立派な花瓶が贈られた。
「ベットに腹ばいになって、角砂糖かじりながら書いた曲が入って、申し訳ないことしちゃった」
八重歯を見せ、すまなそうに言っていた恭一の顔を、讃井智恵子はよく憶えていた。
(ただこの譜面も花瓶も、1945 (昭和20) 年3月12日の名古屋大空襲で実家と共に焼失してしまう)
のちに婚約する女性と出会ったのも、選科の頃であった。彼女は東洋音樂學校(現・東京音楽大学)で学び、放送合唱団に属していた。その出会いは恭一の「友達の友達」の紹介だったという。ただ二人ともたいそう引っ込み思案でなかなか交際は進まず、業を煮やした彼女の姉は「あななたたち、たまにはお茶飲みにカフェに行くとか、映画見に行くとかしたらどうなの!」と、いつも二人にハッパをかけていたということだ。
こうして音校作曲科合格を目指し日々勉学に励む恭一であったが、戦争への足音は確実に忍び寄っていた。上京した翌1941
(昭和16) 年12月、真珠湾攻撃を皮切りに日本はついに米英との戦争に突入する。翌42
(昭和17) 年2月、恭一のもとへ早くも戦争による悲報が届く。居候していた佐藤家の長男・正宏が、ビルマで戦死したのだ。恭一は彼を追悼する「レクイエム
(鎮魂歌)」を作曲し、献呈した。
わずか17小節、演奏時間1分15秒のコラール風小品。名作「雨」と同じヘ長調で、パッハ「マタイ受難曲」コラールを想起させられる。恭一の清らかな心が伝わって来る素晴らしい作品で、特に弦楽で奏された時は他に例を見ないほどの美しさだ。
「レクイエム
(鎮魂歌)」 浄書譜 (楽譜作成工房「ひなあられ」制作)
民俗学者・折口信夫
(1887〜1953)が佐藤正宏の最後に付いて記した文章。
別ペ−ジに鬼頭恭一の「レクイエム
(鎮魂歌)」も紹介されている。
(「レクイエム
(鎮魂歌)」 自筆譜/消された「謎の但し書き」(2023.9.18)
靖国神社・遊就館に所蔵されている「レクイエム
(鎮魂歌)」の自筆譜のスキャンが藝大アーカイブスで行われた際に、恭一の署名の横に文字が消されたような跡が確認された、と東京藝術大学/「声聴館」ページに記されていた。
その文字はコントラストをあげると、次のように判読されたという。
「(正宏の従弟) 当時東京音樂學校在学
(目下海軍少尉候補生)」
(詳しくは下記ページ)
(東京藝術大学/「声聴館」〜「鎮魂歌」詳説ページ)
同ページでは「レクイエム
(鎮魂歌)」が作曲された時期について、これまで正宏が戦死した昭和17年2月24日の直後と考えられて来たが、同年8月20日に正宏の遺骨が丸亀に帰還、合同慰霊祭などを経て9月14日に佐藤家に還るまでの間に、恭一の心の中に正宏への追悼曲を作りたい気持ちが高まり、「少尉候補生」だった昭和19年12月25日から翌20年5月31日までの間に作曲、恭一自身か第三者を通じて佐藤家に届けられたのではないか、と推測している。
以下に筆者の推論を記す。
楽譜の表紙に記されていた恭一の署名の横に書かれていた「但し書き」は、恭一が記したにしては第三者的な表現のように、筆者には感じられてならない。
一旦消された筆跡を判読するのは難しいが、「鎮魂歌」詳説ページの画像をよく見ると、署名と「但し書き」とは、明らかに筆記用具が異なっている。(恭一の署名は墨痕鮮やかな達筆だが、「但し書き」は薄手の鉛筆のように見えるのだ)
「但し書き」を見た恭一の従弟・佐藤正知さんは、「父の字のように見える」と証言されていたそうだ。
正知さんの父君・正鵠氏は陸軍大佐で、恭一の上京時には母・祖母、正知さんの姉、兄と同居していた。
(〜 思い出すままに 〜 (2015.3)」による)
次に「レクイエム
(鎮魂歌)」の作曲時期である。
正宏の戦死時、恭一は東京音樂學校・選科に在籍していた。
正宏は恭一より3ヶ月前生まれの同学年で、愛知一中で1年半ほど共に学んだこともあり、「頼りになる兄貴」的な存在であったという。それだけに彼の死は、恭一にとって大変な衝撃だったろうことは想像に難くない。その痛切な哀悼の思いを「鎮魂歌」として直ちに表したかったのでは、と考えるのが自然ではなかろうか。
少尉候補生に命ぜられた昭和19年12月25日頃は、恭一は九州の築城航空隊に在籍し猛訓練の日々を送っており、正宏への「レクイエム
(鎮魂歌)」を書く精神的状況にはなかった。それに恭一自身が「レクイエム
(鎮魂歌))の楽譜を佐藤家に持参する」事は物理的に不可能であった。また第三者に託すといっても当時の状況もあり、筆者には適切な人物が思い浮かばない。
以下は筆者の結論である。
「レクイエム
(鎮魂歌)」の楽譜は、正宏が亡くなった直後に恭一が作曲し佐藤家に献呈され、恭一が「少尉候補生」だった頃、正知さんの父君・正鵠氏によって鉛筆で「但し書き」がなされた。
それが戦後、恭一の遺品として名古屋の鬼頭家に返され、のちに弟・哲夫によって靖国神社に寄贈されるのだが、恭一は事故死直後中尉に任官されており、「但し書き」の「目下海軍少尉候補生」という表記がそぐわなくなっていたため、消去されたと推測する。
1942 (昭和17) 年4月、恭一は二浪の後ようやく東京音樂學校
(現・東京藝術大学) 作曲科・予科への入学を果たす。この時の同期は團伊玖磨、大中恩であった。音樂學校では信時潔、細川碧ら錚々たる教授陣に作曲を師事するほか、指揮法なども学んだ。翌43
(昭和18) 年4月には作曲科・本科へ進級、同期には團、大中のほか島岡譲、竹上洋子、村野弘二らがいた。
東京音樂學校校舎
(明治23年落成/東京藝術大学HPより)
(東京音樂學校制服を着て 中学時代からの親友・吉田滋と 昭和17年10月)
(写真提供/鬼頭正明)
鬼頭恭一 唯一の笑顔の写真 (右) /音樂學校の仲間と
同年、東京音樂學校管弦楽団と合唱団は、満州国十周年慶祝演奏旅行を挙行した。恭一の弟・哲夫によれば、この際演奏された「奉祝歌」は恭一が作曲したものだった可能性があるという事だ。
しかし戦況は次第に悪化し、東京音樂學校を取り巻く環境も厳しさを増していた。
「成人男子が音楽ごときに現を抜かすとは何事か」という風潮が蔓延し、時代は音楽家にとり完全に逆境と言っていい時代になっていた。音校生も戦争遂行に協力する他に、生き残る術はなかった。
当時を伺わせる、恭一の同期生・大中恩が記した文章を次に紹介する。
「昭和18年7月、音樂學校生徒は軽井沢で行われた「学徒挺身隊」という名の軍事教練に参加した。一週間位行っていたと思う。他の大学や専門学校の生徒も来ていたが、各学校ごとに纏まって行動していた。僕はそこで管楽器の上級生に殴られた。そのとき「作曲科の奴ら生意気だ」という言葉が飛んできた。その頃の管楽器の生徒の中には、音樂學校へ来る前に学校の先生なんかやつてた人が何人かいて、そういう人達からみれば、僕なんか生意気に見えたかも知れない。しかしそういう時に、團伊玖磨なんかは殴られなかつた。彼は「やんごとなき家の生まれ」(註/團の父親は男爵・團伊能)
だったので、特別扱いされていたようだ。僕は後日海軍に入つて日常的に殴られたが、人に殴られたというのは、軽井沢が初めてだった」
(東京音樂學校/同声会報
No.17 より)
軍事教練中の鬼頭恭一 (右から2人目) まるで映画の一シーンのようなスナップだ。
上級生から最も睨まれていたのは鬼頭恭一と大中恩だった。
鬼頭は決して怯む事なく、言うべき事を堂々と言い返していたという。
2016 (平成28) 年4月、筆者は大中氏から直接、鬼頭恭一について伺う機会を得た。 短い音校生活の中、束の間の青春を謳歌していた鬼頭の様子がありありと伺える、貴重な証言である。
「音校時代僕は副科でラッパやってたんだけど、ある日鬼頭が「ちょっとラッパ持って、一緒に来てくれ」って言うんだ。どこ行くのかなーとついてったら、寮らしい建物の前で「ラッパ吹け」という。何でこんなとこで、と思いながらパッパーとやったら、窓から一斉に若い女の子が顔を出した。もう恥ずかしったらありゃしない。
やがて玄関から一人の女の子が出てきて、鬼頭と嬉しそうに喋ってる。「あー彼女がいるんだ、いいなあ」と思ったね」
「当時僕の家は教会だったんだけど、鬼頭と團
(伊玖磨)が「パイプオルガンが見たい」と言うので、一緒に連れて行ったんだ。
たまたま親父 (大中寅二)がいて出て来たんだけど、鬼頭はまったく怯む様子もなく、生意気な事をいっぱい喋ってる。もうこちらはハラハラ。でも二人が帰ったあと親父が「あの鬼頭という男は、なかなか骨のある奴だ」と言っていた。
若い音校生と話ができて、親父もきっと嬉しかったんじゃないのかな」
音楽学校生たちと。前列右から2人目=鬼頭恭一、後列左から2人目=團伊玖磨
6. 学徒動員 〜 海軍航空隊へ
1943 (昭和18) 年6月、東条内閣は「学徒戦時動員体制確立要項」を閣議決定、学徒への動員猶予は撤廃され、本来ならば昭和20年卒業予定の恭一ら本科生も進級僅か5か月後に「繰上げ卒業」を余儀なくされる。その先に待っているのは軍務であった。同年9月21日、内閣は学生の徴兵猶予の全面停止を決定。徴兵検査で合格した者は全員、陸軍か海軍のどちらかに入隊せざるを得なくなった。
当時音校生は卒業後、陸軍戸山学校軍楽隊に進む者が多かった。軍楽隊であれば、前線に送られる可能性は低いと考えられていたからだ。
しかし恭一は
「どうせ軍隊に行くんだったら、俺は海軍航空隊に入る ! 」
と言い出し、またまた猛反対する両親を押し切り、海軍航空隊への入隊を決めてしまう。
従弟の佐藤正知は語る。
「軍楽隊に行ったら、皆が戦争に行かされている中、自分だけが行かないですむ道を選ぶことになる。それは自分の男気・美学に反すると思っていたのでしょう」
10月21日、降りしきる雨の中、明治神宮外苑競技場で挙行されたの学徒出陣大壮行会のスタンド。
東京音樂學校吹奏楽団の一角に、恭一も座っていた。
その席で恭一は親友・吉田滋に、
「軍隊に入ったら要領よくやらなきゃ駄目だ。とにかく前に出たら駄目だ」
「ベルリン・フィルハーモニーに自分の作品を演奏させ、指揮をとるのが夢」
と語っていたという。
1944 (昭和18)年11月13日 出陣学徒仮卒業式。
最後列右から4人目が鬼頭恭一。(東京藝大大学史資料室・蔵)
同月、海兵団入隊後航空機操縦士の適性検査に合格。正式に召集令状を受けた恭一は故郷・名古屋に帰省、親戚・縁者を集め大規模な壮行会が行われた。
鬼頭恭一/家族写真 (昭和18年11月28日 恭一の出征を記念して) (写真提供/鬼頭正明)
写真左より妹・三保子 (1930〜2016)、母・成子 (1904〜88)、父・儀一 (1895〜1958)、妹・明子
(1932〜 )、恭一、弟・哲夫 (1924〜2004)
妹・明子は、その時の思いを次のように述べている。
「あの頃召集と聞けば、すぐ死を思い浮かべました。
戦争というのは、本当に知らず知らずのうちに始まるのです」
帰省中のある日、恭一は明子と一緒に近所のポストへと向かった。
色鮮やかな夕日が二人を照らしていた。手紙をポストに投函したあと、恭一は真っ赤に染まった東の空を指さし、ポツリと言った。
「あの空の下に、あの人がいるんだ・・・」
まだ国民学校5年だった明子には、恭一の言葉の意味が分からなかった。
「兄は婚約者のことを、いつも思っていたのでしょう。
ポストに入れたのも、彼女への手紙だったのでは」
12月に学徒動員令が下るや10日、第一期飛行専修予備生徒として学徒出陣、広島県の呉鎮守府大竹海兵団に海軍予備生徒(二等水兵)として入団、翌1944
(昭和19) 年2月に三重 (香良洲) 海軍航空隊に入り、5月には基礎教程を終了した。
この頃父親・儀一と三重県・津まで面会に行った恭一の妹・明子は、その時の思い出を次のように語っている。
「子供の頃厳しかった兄が、面会に行った時はとても優しくなって・・・
でも私は、そんな兄が嫌でした」
やがて恭一は少尉候補生に任ぜられ、福岡県の築城
(ついき) 海軍航空隊に転勤する。築城は瀬戸内海に面した穏やかな農村であったが、海軍航空隊の主要基地があった。
一種軍装を身にまとい、恭一は満足そうに語っていたという。
「同期の團伊玖磨は陸軍の軍楽隊に入ったが、海のほうが、何と行ってもスマートだから」
1945 (昭和20) 年4月8日 少尉任官を前に (写真提供/鬼頭正明)
入隊後も、恭一の音楽に対する情熱は決して萎える事はなかった。
恭一と同い年で一年余海軍航空隊で寝食を共にした大内恒三は、次のように証言している。
「鬼頭は本当に真面目な男。人づきあいも良かった。
彼は暇さえあると(五線紙を)出して、一生懸命書いていた」
また築城海軍航空隊で同期だった代田良はのちに「惜別の譜」
(「貴様と俺」より) で、築城時代の恭一について次のように記している。
「厳しい訓練にあけくれた飛行時間の合間に、あるいは夜のわずかな休憩時間に、生徒館の一隅で端正な顔をかたむけて、ひとり五線紙にペンを走らせている彼をみることがあった。そんなとき実のところ私は、この激しい訓練の中にあって、なお物に憑かれたように作曲にはげむ彼の姿に、驚きと畏敬にも似たものを感じないわけにはゆかなかった。そして彼が自分とは別の社会の人のようにさえ思えた」
「学業途中で海軍に入った彼は上野の音楽学校出身だということで、築城では軍歌演習の指導を受け持たされた。日曜日の夕方軍歌集を高く揚げ、歌いながら行進する二百数人の同級生の大きな輪の中心に、恭一はすっくと立っていた。「如何に狂風」とか「黄海の海戦」とかの海軍特有の軍歌をまず彼が一節づつ歌った。同期の総員は恭一が一節を歌うと、それに続けて声をはりあげた。作曲科出身の彼にとっては、この役目は必ずしも嬉しくはなかったと思うが、我々からみればその時の彼は颯爽としていた」
築城に移って5ヶ月ほど経った秋、恭一は一曲の歌曲を完成した。それが冒頭で紹介した「雨」である。
自筆譜には「皇紀2604 (註/昭和19) 年10月30日〜11月3日作曲完成」という書き込みがなされている。連日の猛訓練の束の間のひととき、彼は近所の国民学校
(小学校) や女学校になどに出かけオルガンを弾いていたという。「雨」の詩は、面会に訪れた婚約者が持参した婦人雑誌に掲載されていたもので、和歌山の清水史子の手によるものであった。「雨」の詩に感じ入った恭一は、わずか5日間で曲を完成させた。それがこんにち、たった一曲残された歌曲「雨」である。
(東京藝術大学/「声聴館」〜「雨」詳説ページ)
弟・哲夫によれば、恭一は音楽の勉強を通して日頃から外国人との交流も多く、当時併合されていた朝鮮で反日活動を行っていた人々との接点もあった。排他的な日本外交には常に批判的で、この頃築城に面会に訪れた父・儀一、弟・哲夫に向かい「日本はもう見込みが無い」と語っていたという。 これが恭一と親族との最後の面会となった。 この際恭一は婚約者に宛てた手紙を二人に託している。
「俺は絶対死なない。間違っても死ぬようなバカなことはしない」
と語っていた恭一ではあったが、自らの行く末を密かに覚悟していたのだろうか。「雨」は、恭一の、まさに遺言ともとれる作品なのだ。
2015 (平成27) 年、ご遺族から自筆譜の提供を受け、浄書譜の作成を行いプレイバックを聴いた時音符のひとつひとつに込め抜かれた恭一の思いが痛々しいまでに感じられ、全身が震えるほどのショックを受けた。何と強烈な「思い」であろう・・・・戦争により理不尽に命を奪われる悲劇を音楽として具現化したメッセージとしか感じられないのだ。言論統制が熾烈を極めた当時、反戦の意志を示すにはこのような表現が精一杯だったのではと思われる。(同様な形での密かな反戦の意志表示は、平尾貴四男の「おんたまを故山に迎ふ」(1942)
にも見られる。)
「雨」作曲の9か月後、恭一はこの作品で描かれている情景と同じ運命を辿ることとなる。いったい恭一はどのような思いで、この作品の筆を進めたのだろうか。
戦後70年となる本年 (2015年)、「雨」は是非とも現代の日本人に聴いてほしい、いや聴かれるべき作品だと思う。
2015 (平成27) 年7月に発見された「MUSIC NOTE」に記されていた「雨」のスケッチ。
バッハ/シャコンヌを思わせる和音の下に、黒いシミが4箇所付いている。作曲中感極まった恭一が落涙し、それをペン先で吸い取った跡のように見えてならない。
曲は白い橘が香る、初夏の平和な故郷の情景から始まる。 四分音符単音で奏される「ド・ラ・レ」音型の前奏に続き、歌が入る5小節目からピアノの右手で奏される同じ音型の3連音符が美しい。この3つの音は、平和な故郷に静かに降りつづく細かな雨を表しているのだろう。
しかし無気味な経過部 (18小節) のあと曲は突如短調に転じ、戦死者の遺骨が帰って来た事を表す。ピアノの左手が奏する16分音符の細かい動きは、悲嘆にくれる恋人の心情であろうか。歌詞とピアノの叫ぶような悲しい掛け合いが続き、36小節「メノ・モッソ
(今までより遅く)」/「ますらをの 形見届きぬ」の箇所で、ハ短調の重々しい和音が現れる。この和音は「ド・シ・ラ・ソ」と降下して行き、39小節から4小節の間、ピアノの左手に3連符と8分音符の単音が27回続く、まことに印象的な箇所に至る。
この部分を聴いた人の多くが、ショパン「雨だれの前奏曲」の中間部を想像するのではないか。事実、恭一はショパンの音楽をこよなく愛し生前よく弾いており、所有していたSPレコード
(A. コルトーの演奏か? ) は何度も何度も繰り返し聴いた結果、再生不能になったという。42小節目「数々の 形見の品に 在りし日の面影偲び」では、ピアノの6連音符が頬に流れ落ちる涙のように奏され、51小節「永久の 勲讃えて」では、バッハ「シャコンヌ」の和音を想起させる荘厳さが印象的だ。57小節からは再び平和な故郷の風景を思わせるヘ長調のゆったりとした部分に戻る。しかし、愛する人は、二度とこの美しい故郷へ帰る事はない。その残酷さ・・・。 67小節目、全曲中の最低音「ファ」の単音で「雨」は
静かに終る。
まるで作曲家の遺言のように。
(テープの演奏者は ソプラノ/三宅悦子、ピアノ/佐藤明子 = 恭一の妹)
なお先にも述べたが、この「雨」にはショパン「雨だれの前奏曲」との近似性が、いたる所に見られる。タイトルに「雨」を入れているのが最大の共通点だが、ここでは曲の構成まで踏み込んで見てみたい。「雨」
「雨だれ」とも、a-b-aの三部形式からなっている。そして前・後奏の「a」が長調、中間部の「b」が短調という構成も同じだ。次に両曲の調性を見てみたい。「雨」は全曲を通して同じ調号
(フラット1つ)、つまり「ヘ長調 - ニ短調 - ヘ長調」と転調するのに対し「雨だれ」は変ニ長調
- 嬰ハ短調 - 変ニ長調と転調している。しかし変ニ (レのフラット) と嬰ハ (ドのシャープ)
は「同じ音」なので、「a」と「b」には共通項があるというわけだ。こうしたショパンのトニックを恭一は意識していたのではないだろうか。識者の方のご見解を伺えれば、と思う。
最大の共通点は、その曲想だ。ショパンは「雨だれ」を1836年から39年までの間に、マジョルカ島の別荘で作曲した。「雨だれ」のストーリーは次のように伝えられている。
「恋人・ジョルジュ・サンドが旅に出かけ、病弱で一人窓から庭を見ていたショパンの耳に、屋根から落ちる雨の音が同一のリズムを刻みながら入ってくる。それを聞いているうち、胸中に不安な思いが込み上げる。そう、当時彼は肺を病んでいたのだ。
絶望的な思いに机に突っ伏すショパン。しかしやがて不安な思いは少しづつ去り、外は前と同じような雨がしとしとと降っているばかりであった」
ショパン「雨だれ」と鬼頭恭一「雨」。最大の共通点は、ともに中間部で「死者」をドラマティックに表現していることだ。実弟・哲夫は「雨は、兄の精一杯の反戦の意志表示」と証言していたが、この中間部にこそ、その思いが強く伺えるのである。戦意高揚を思わせる歌詞に付けられた音楽には、恭一が願っていた「生と死を貫くシンフォニー」や「人間臭いオペラ」の作曲で用いたかったであろう「悲劇的和音」と「ハーモニーの進行」、そして「劇性」が、見事なまでに込められている。
歌曲「雨」(1944)
自筆譜 (コピー) オリジナルは 靖国神社=遊就館・蔵
「皇紀2604.11.3 築城航空隊にて」の記載あり
「雨」
詩 / 清水 史子 (和歌山) 曲/鬼頭 恭一
たちばなの 眞白き花に はつ夏の 小雨けむりて
たちばなの ゆかしきかをり ふるさとに 匂へるあした
わたつみの 潮の香こめて ますらをの かたみ届きぬ
大君の 御名となへつ ほほゑみて 南に散りし
ますらをの かたみとゞきぬ
かずかずの かたみの品に 在りし日の おもかげ偲び
とこしへの いさをたゝへて 文机に ひとりしよれば
たちばなの 紀伊の國辺に ひねもすの 小雨けむりぬ
(註) 恭一は作曲にあたり、最後の歌詞を「はつ夏の 小雨けむりぬ」に変更している。
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「雨」の自筆譜は、築城で交流のあった讃井智恵子に託された。
1975 (昭和50)年9月23日、名古屋で行われた「鬼頭さんをしのぶ会」会場で、三宅悦子のソプラノ、恭一の妹・佐藤明子のピアノによる録音が初めて公開された。
(讃井智恵子さんから恭一の妹・佐藤明子さんに「23日の会で「雨」を流したいから、録音をしていただけないか」という依頼の電話があったのは4日前の9月19日で、その日のうちに渋谷でコピ−譜が手渡された。明子さんは難しいので断ろうとしたが、友人のソプラノ・三宅悦子さん(武蔵野音大出身)の協力を得て、何とか3日間で録音にこぎつけ、カセットテープは23日に東京駅で名古屋へ向かう智恵子さんに託された。なお佐藤正知さんによれば、ピアノは違うが、録音は恭一のベッドとピアノがあった仕事部屋で行われたという)
「雨」のオリジナル譜はこの会のあと、智恵子から恭一の母・成子に渡されたと推測される。
恭一の弟・哲夫は、楽譜を恭一の母校・藝大に寄贈しようと訪れたが、「卒業生名簿に名前がない」という理由で断られてしまう。戦況悪化によって繰り上げ卒業となり学徒動員で犠牲になった学生は、藝大では在籍記録さえ残されていなかったのだ。恭一は繰り上げ卒業にならなければ、1945(昭和20)年3月に卒業するはずであった。
結果、「雨」自筆譜は「レクイエム」自筆譜や遺品と共に靖国神社に奉納された。
現在は同遊就館に「英霊の遺品」として展示されているが、恭一の甥・正明の尽力で藝大でコピーがなされ、現在藝大アーカイブスのホームページ
で見る事が出来る。
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2023(令和5)年9月、「雨」の歌詞の内容について、恭一の従弟・佐藤正知さんから、興味深いお話を伺った。女性の愛する人は曲の始まりの時点で既に亡くなっていたのでは、というのである。当時南方で戦死した場合、遺骨が親族のもとに届く事はほとんどなく、多くが戦死公報だけであった。
ところが「雨」では何らかの遺品が届き、女性は愛する人の最後に改めて思いを馳せたのでは、と正知さんは言われのである。
確かにそのように解釈すると、以下の歌詞に、より真実味が増す。
わたつみの 潮の香こめて ますらをの かたみ届きぬ
大君の 御名となへつ ほほゑみて 南に散りし
ますらをの かたみとゞきぬ
恭一はこの中間部の詩に深く感じ入り、共感に満ちた劇的な音楽を生み出したのだ。
1944 (昭和19) 年11月10日、築城航空隊の上官である森島鼎少尉から恭一に、2册のピアノ作品集の譜面が贈られた。その裏表紙に、恭一への言葉が記されている。
「陣中に歌をよむだ古武士の如く 熾烈なる現在の戦場の上を飛ぶ海軍士官に 音をつくる心のゆとりあることは喜ばしい。
大いに勉強して 陣中作の立派なのを出して欲しい。俺も何時かは死所を得るだらう。
そしたら時には この二つの譜でも開いて思ひ出してくれ」 森島鼎
「鬼頭生徒に 大君に捧げまつった君は公の人間だが 私の生活を許されてゐる
(勿論それは或る程度ではあるが)
海軍士官としての君にこの譜を送る」 森島少尉
軍律厳しき中、このように音楽に理解のある上官がいたことは、恭一にとり何よりの励ましとなったのではなかろうか。
8. 特攻への志願
1945 (昭和20) 年2月、講堂に集められた恭一ら予備生徒たちは、飛行隊長から重大な勧告を受ける。
「唯今から、貴様たちを中心とした特攻隊を編成する ! 」
皆固唾を呑み、隊長の言葉を噛みしめた。硫黄島に米軍が上陸、沖縄にも戦火は刻々と迫っていた。戦局芳しからず、軍上層部は「特攻」作戦を本格的に導入しようとしていたのである。志願するか否かを熟慮するために与えられた時間は僅か30分。その後、与えられた用紙に「マル」か「バツ」、もしくは「サンカク」を記し提出せよ、というのである。
30分後、恭一は「マル」を記した用紙を提出した。その時の気持ちを、のちに佐藤正知に次のように語っている。
「志願する迄は苦しい。然し出して仕舞い、発表になってしまえば何も苦しむことは無い」
恭一の同期・大内恒三は、特攻を志願した時の思いを次のように証言している。
「男らしく正々堂々と行こうと、表面上は皆そういう風に言いました。でもやっぱり割り切れるにはどうしても…
いろんな雑念が入ってくるから、時にはやけになる。冷静に考える時もある。やっぱりまた諦めに戻る。やっぱり死ぬんだと」
昭和19年以後、本土への空襲は現実のものとなり、築城も米軍戦闘機・グラマンによる機銃掃射に襲われるようになった。恭一もあと数メートル、というほどの至近距離に掃射を受け、九死に一生を得た事があったという。
(写真提供/鬼頭正明)
3月14日、恭一の郷里・名古屋は米軍の空襲を受け、錦にあった恭一の実家の酒問屋・京枝屋は近くに落ちた焼夷弾による類焼のため全焼した。 空襲のあと実家に入った妹・明子は、恭一が満州国から貰った花瓶が砕け散り、その横に焼け焦げた大量の譜面があるのを見つけた。
「五線紙は焼けても、音符を記したインクの跡は鮮やかに残っていました。そこでしばらくは大切に持っていたのですが、次第にバラバラと崩れ散り、すべて灰になってしまいました」
僅かに残された家財を大八車に積み郊外の覚王山に向かう道すがら、空襲を免れた家の前で、避難する人々に懸命におにぎりを配る人たちがいた。
「こんな大変な時に・・・」
明子はその時の感動を、今も忘れないという。
9. ただ一人の弟子 〜 讃井智恵子
1945 (昭和20) 年4月、恭一は築城である女性と出会う。それはまさに奇跡といっていい再会であった。彼女の名は讃井
(さぬい) 智恵子。(以下「智恵子」と記す)
かつて恭一と御茶の水にあった音楽学校選科で共に学んでいた女性であった。智恵子は半年で選科を中退後九州・門司の実家へ戻り、その後築上郡松江に疎開、築城航空隊で理事生
(事務補助)をしていた。
その様子を智恵子は、随筆「霞ヶ浦追想」のなかで次のように記している。
「4月、副官部だけが推田の山深くに疎開した。ある日、帰宅のため、推田のホームにいると、にこやかに近づいてくる見知らぬ士官がいた。相手は帽子をとった。額は、はっとするような白さであった。眉から下は黒く、くっきりと色分けされた感じである。鬼頭恭一と自己紹介し、入学式の時いっしょだったという。そういえばこんな人がいたようなという程度の記憶であったが、ともかくその奇遇に驚いた」
讃井智恵子 (昭和18年頃)
(写真提供/讃井優子)
智恵子との再会により、恭一の音楽に対する情熱は一気に燃え上がる。
訓練の合間にもまだ作曲を続けていると語る恭一に、智恵子は「楽器はどうしているのか」と訊ねた。
「今は小学校のベビーオルガンをたまに借りるくらいだけど…ピアノも疎開したの?」
智恵子の家にピアノがあると聞くや否や、恭一の顔がぱあっと明るくなった。
「今度の日曜日、ぜひ伺いたい !」
帝国海軍の軍人とはいえ、うら若き女性の家に成年男子を招き入れる事は、さぞ大変なことであっただろう。智恵子は家に帰り母に相談、何とか了解を得て、次の日曜から疎開先への恭一の訪問が始まった。朝から虎屋の羊羹などを持って訪れ、音楽を語りピアノを弾く恭一。レパートリーはバッハやベートーヴェン。 智恵子はその演奏の迫力に、ただただ圧倒されたようだ。
・・・音楽家にとって、どんなにピアノを弾きたいか、言われなくても痛切に分かる・・
ピアノが一段落したあと、恭一は胸のポケットからチラッと一枚の写真をとり出した。
「おデコだけど、可愛いでしょう?」
それは将来を固く誓った、同い年の婚約者の写真であった。そそくさとしまおうとするのを
「一寸、見せて! 」と、サッとひきぬく智恵子。 恭一は、色白の顔を耳たぶまで真っ赤に染めながら、あわてて取り返そうとする。そしてふと漏らした言葉は・・・
「今に戦争も終る。それまで生き延びなくっちゃ」
当時こうした言葉は禁句であったが、恭一は堂々と言って憚らなかった。
「生と死をつらぬくシンフォニーを書きたい」
というのが恭一の夢でもあったという。目的意識をはっきり持ち、心をこめて作曲に励む恭一の姿に、智恵子はいつしか小さな応援団となり、やがて自らの事を「(恭一の)ただ一人の弟子」と自認するようになっていった。
「惜別の譜」 ( 讃井智恵子/作曲 鬼頭恭一/編曲 ) (左) 自筆譜 (讃井優子/所蔵。恭一特有の異常に大きなト音記号がハッキリ見て取れる)
(右) 浄書譜 ( 昭和50年9月10日付け朝日新聞記事から判読・製作された)
この時智恵子が作曲した歌曲「惜別の譜」を、恭一は4部合唱に編曲した。残された譜面には5月17日と記されている。わずか16小節のコラール風作品だが、切々としたハーモニーが美しい佳曲である。
「惜別の譜」作曲の直後、恭一は山形県神町(じんまち)に転勤を命じられる。
壮行の駅頭での様子を、智恵子は「ただひとりの弟子」の中で、次のように記している。
「ひなびた小さな駅の待合室で、音楽の楽典の本を囲んで話しながらお別れすることにした。まとまった話をするでもなく、楽譜の音程の隔たりを目で追いかけながら頁をめくっていた。ただ時間だけが静かに過ぎて行くように思われた。かつての音大生が二人そこにいた。構内は、ゲートルをつけたおじさんや、モンペを着たおばさん達であふれていた。が、不思議に海軍士官はいなかった。もう帰らねばと思い、立つと、鬼頭さんも立って突然、原語でプッチーニのオペラ「蝶々夫人」の中の「ある晴れた日に」を歌い出した。透き通るようなテナーであった。遠い一点を見つめて、直立不動で歌っている。その声は神々しいまでに澄んで美しかった。まわりの人たちは、一瞬戸惑いを見せたが、海軍の士官さんが歌うておられるけんと、鷹揚に構えてくれていた。私も気恥ずかしかったが、帰るに帰られず黙って俯いて聞いていた。歌が終ったのをきっかけに、私は軽く会釈して下り線のホームの方へと足早に去った」
こうして築城での恭一と智恵子との音楽的交流は、僅か1か月で終りの時を迎えた。この時の体験を智恵子は戦後、数多く書き残しているが、いずれも青年・恭一の初々しい人間像を伺わせる、まことに貴重な証言である。
10. 山形から運命の地・霞ヶ浦へ
5月22日夜、恭一はかつて世話になった東京田園調布の親戚・佐藤家に突然現れた。家には普段は寮生活をしている従弟の佐藤正知が戻っていた。驚く佐藤に恭一は、「築城にいた間に、20曲ほど
書き上げた」と話したという。また「これから山形で突っ込みの練習をする」と語った。神町での任務は特攻の訓練だったのだ。その時の思いを当時16歳の軍国少年だった正知は、日記に次のように記している。
「国のため天皇陛下のために殉ずることは尊いことだ。・・・
しかし惜しい、なんとしても惜しいことだ」
恭一はかつてのピアノの師・水谷達夫の家にも立ち寄った。しかし水谷が不在だったため、次のような書き置きを残した。
「いよいよ活躍する時が来た。先生に会えなくて残念」
家人から水谷の新作「沙羅の曲」の譜面を見せられ、恭一は涙を流していたという。
神町航空隊では九三中練(複葉二人乗り中間練習機/通称「赤トンボ」)で突入訓練を開始するとともに、6月1日付けで少尉に任官した。山形では許嫁の女性と一緒に暮すつもりで新居も捜し、親族に送るべく6月9日に二人の写真も撮っていた。
そこへ突然、霞ヶ浦への転勤命令が下されたのだ。
7月1日、恭一は運命の地・霞ヶ浦第312航空隊に赴任した。霞ヶ浦に到着後、初めて恭一はこれから訓練の後搭乗する予定の飛行機が、日本初のロケット戦闘機であることを知らされる。「312空」は2月に編成された日本最初のロケット戦闘機「秋水」の搭乗員養成部隊だったのだ。「秋水」は日本本土に来襲するB29対策として、ドイツのメッサーシュミット163を手本とした最新鋭のロケット飛行機で、エンジン全開で高度10000mまで3分半で到達、高度1万2000メートルの敵機を攻撃し、僅か7分で燃料を使い切った後は、グライダーとなって基地へ帰還するという構想であった。「帰還を見込んでいるのだから、特攻機ではない」との説明ではあったが搭乗員の誰もが「上がったら終り」と思っていたという。連日の空襲・機銃掃射等により日本の軍需産業の大半は壊滅状態となり、航空機の充分な整備など到底期待出来ない状態であった。
7月7日、ようやく完成した「秋水」試験機はただちにテスト飛行を行ったが、離陸後にトラブルが発生、不時着大破しパイロットは殉職した。恭一が転勤してきたのはその直前で、霞ヶ浦ではグライダーと九三中練による滑空訓練を行っていたようである。
「秋水」復元機 (名古屋/三菱重工小牧南工場史料室) 写真提供: 秋水会
恭一が所属していた「312航空隊=秋水隊」の中核は、全員が大学、高等専門学校の理科系および師範科卒で構成された実験部隊であり、「軍隊というよりは学校のサークルのよう」といわれるほど、アカデミックなものだった。
霞ヶ浦航空隊の宿舎である夜、消灯時間を過ぎても士官控え室からはレコードの音楽が流れていた。それは何と「敵性音楽=ジャズ」。しかし、宿舎に響いた副司令の大声は
「士官室、消灯時間を過ぎておるぞ!」
決して「流れている曲」を責めるものではなかった。「これが、陸軍や別の部隊ならば・・・」と、隊員の誰もが思ったと言う。
航空隊の一人の証言によれば、「ジャズのレコードをかけたのは鬼頭だった」という。
厳しい訓練に明け暮れる毎日の、ほんの安らぎのひととき、恭一も間違いなくジャズを聴いていた
のだ。
11. 恭一の死
「秋水」は帰還時には燃料を使い果たしており着陸は100%滑空によるため、最初の訓練は九三中練でスロットルレバーをゼロにしぼり、滑空しながら飛行場の定点に着陸するというものであった。
7月29日、鬼頭恭一少尉は同期の加藤長利少尉(明 治大学)とともにタッチアンドゴーの訓練に向っていた。事故はこの直後の13時10分に起った。突然エンジンが停止し、機体は飛行場東側有蓋掩体壕
(空襲から飛行機を守るための壕) に激突し、壕内で炎上したのだ。二人ははただちに助け出されたものの恭一は頭蓋骨骨折、熱傷3度の即死であった。
加藤少尉はしばらくの間意識があり「鬼頭は?」と同僚を案じていたが、全身熱傷のため絶命した。
航空隊からは直ちに恭一の名古屋の実家に宛て、殉職の電報が送られた。しかし中心街・錦にあった実家は空襲で焼けてしまい、家族は市東部の覚王山の方に仮住まいしていたため、知らせが届く事はなかった。ただ何という偶然だろう。殉職の翌30日、父・儀一と恭一の婚約者が面会のため、別々に霞ヶ浦へと向かっていたのである。駅前でバッタリ出会った二人は驚き、挨拶もそこそこに霞ヶ浦航空隊へ歩を進めた。二人の姿に、部隊の方はてっきり連絡が届いたと思ったということだ。
突然の不慮の死を知らされた儀一と恭一の婚約者の心境は、いかばかりであった事だろうか。
翌日若しくは翌々日、部隊葬が行われた。
「彼は学生結婚していたのかなぁ・・・奥さんだか恋人だろうか、ひどく泣いていた方がおられたのを覚えています」
『秋水会』の幹事のお一人は、葬儀の模様をしみじみと述懐する。
米軍の頻繁な艦砲射撃や機銃掃射が行われる劣悪な交通事情の中、儀一に海軍の同僚4〜5人も付き添い8月4日、恭一の遺骨は郷里・名古屋に戻った。
葬儀の2、3日後、恭一の同僚で大柄の士官が一人で霞ヶ浦から実家を訪れ、遺族に次のように語った。
「禁じられていたことですが、ヘリコプターが前方を通過しました。それで事故が起こったのです」
決して恭一機の操縦ミスにより起こった事故ではなかったという事を伝えるため、この方はわざわざ来てくれたのだ・・・・
明子たちは、そう受け取ったという。
結局、秋水の本体は完成せず実戦投入もされなかった。312部隊は敵機の機銃掃討による地上での1名の戦死者、事故による殉職7名という尊い犠牲者を出し解散した。
終戦がもしあと18日早かったら・・・恭一はその才能溢れる若き命を奪われる事はなかったのだ。運命の残酷さ、戦争の悲惨さ・理不尽さに、改めて思いを馳せてしまう。
海軍航空隊の同期だった大内恒三は、戦後70年にあたる2015(平成27)年、NHKの取材で新たに発見された恭一のミュージック・ノートのコピーを渡され、「これです、彼はいつもこれを書いていました」と証言した。そして涙を流しながら続けた。
「彼にはもっと長く生きてほしかった・・・気の毒というより、かわいそう。
命令だから彼は忠実に従った」
また恭一の同期生・大中恩は語る。
「鬼頭君も村野君 (註: 同期の村野弘二)も、優秀な人だった。
彼らの才能は戦後生かされるべきだったし、我々同期が競争したら音楽界も面白かっただろう」
12. 志は永遠に 〜 鬼頭恭一その後
玉音放送から10日あまりが過ぎた8月26日、恭一と築城で同期だった代田良は、復員のため郷里・長野県に向うべく常磐線で上野へ出て、新宿駅から中央線まわり名古屋行きの列車に乗った。車内は混み合っていたが、やっとの思いで列車の一角に席をしめると、前の席に英霊とかかれた白布につつまれた箱を抱いた一人の娘が座っていた。代田は遠慮がちに、「英霊」はどこで亡くなられたのか、と彼女にたずねた。
「霞ヶ浦の航空隊でございます」
「やはり、海軍の飛行機乗りであられましたか」
「学徒出身でございました」
代田はもしかして基地で一緒だった人ではと思い、何期の人かたずねるうち、何とその遺骨は旧友・鬼頭恭一のものということが分かる。
以下に代田自身の文章 (「惜別の譜」より) を記す。
「私は自分が鬼頭と海軍の同期であり、福岡県の築城航空隊で一緒に訓練をうけ、生活をともにしたことを話した。あまりの知遇に驚きながら彼女に、「失礼ですが、鬼頭中尉の妹さんでしょうか」とたずねた。彼女は美しい少女のような顔を一瞬紅潮させて「鬼頭の妻でございます」とこたえた。私は自分の耳をうたぐった。そして何ともいえない感動にうたれ絶句した。自分と同じ22才にちがいない同期の鬼頭恭一に、こんな幼な妻があったのかと、いいしれぬ悲しみを覚えた。
私は鬼頭の遺骨を抱く彼女に、久し振りに会った肉親に対するような思いでいろいろ語り合った。
やがて私たちは別れる時が来た。名古屋の生家へ還る鬼頭の遺骨や彼女と、私は辰野の駅でひっそり別れた。
彼女たちを乗せた列車が西の山峡に消えてゆくまで、私はホームに立って見送った。人影のなくなったホームにたたずみ、私は暗然たる思いで、あすからの祖国日本を思い、また彼女のこれからの人生を思った」
恭一の遺骨は、前に記したように父・儀一が8月4日に名古屋に持ち帰っている。代田の記述どおりだとすれば、「鬼頭の妻」と答えたという許嫁の女性が抱えていた白箱に入っていたのは分骨されたものか、あるいは恭一の遺品だったのだろうか・・・・没後70年を経た今となっては、それを知る縁もない。
1975 (昭和50)年、讃井智恵子が夫の勤務先である自衛隊の機関誌に書いた鬼頭恭一の追悼文が恭一の愛知一中時代の同窓生の目にふれ、恭一の遺族や代田との連絡が取れ、また恭一のその後を捜していた團伊玖磨とも繋がった。同期生を中心に名古屋市中区で「鬼頭さんをしのぶ会」開催が決まり、9月10日附朝日新聞名古屋版に「響け 陣中遺作の曲」と題した記事が掲載された。その席で團氏に「惜別の譜」のタクトを執ってもらおうというプランも生まれたが、恭一の母・成子は次のように述べ辞退した。
「戦争による不幸はほかにもあります。
私どもだけが特別な扱いになることは避けたい」
謙虚で誠実な、古き日本人を想起させられる言葉だ。
この際讃井智恵子は名古屋・八事霊園にある鬼頭家の墓を初めて訪れたが、墓前で泣き崩れてしまいなかなか立ち上がれず、同伴した成子らを戸惑わせたという。
9月23日、名古屋市内の「海軍」という店には大雨にもかかわらず、恭一を偲び愛知一中時代の同期生や築城時代の海軍同期生ら25人が集まった。 恭一の母・成子や弟・哲夫、その長男・正明らを囲み、讃井のエレクトーンで「惜別の譜」が演奏された。また妹・明子と知人の三宅悦子により前日に録音された「雨」のテープも、会場に流された。
23年後の1998(平成10)年8月20日、名古屋大須ロータリークラブ例会で「若き戦没音楽学生の遺したもの」と題された講演が、同クラブ前会長の鬼頭哲夫により行われた。 この際の記録テープが、その後の鬼頭恭一に関する調査に重要な役割を果たす事となる。
いま鬼頭恭一は、名古屋・八事霊園の一角、美しい赤松の木に囲まれた丘の上にある「鬼頭家の墓」で永遠の眠りについている。
(名古屋・八事霊園/2023.7.29/恭一の命日)
13. 戦後70年と新たな楽譜発見
戦後70年を迎えた2015 (平成27) 年4月30日、東京新聞にある記事が掲載された。
「早世の作曲家 音色を現代に」
続いて恭一の故郷・名古屋の中日新聞・夕刊にも同様の記事が掲載された。
いずれも鬼頭恭一の「雨」について伝える内容であった。
この記事に、「戦後70年」にふさわしいニュースを探していた朝日・毎日・読売をはじめ主要新聞のすべて、名古屋のすべてのTV局が鬼頭恭一を取り上げた。
「雨」の初演も、名古屋の宗次ホール主催のコンサートで8月11日に行われる事になった。
8月28日にはNHK名古屋が「ナビゲーション」で、「戦争に奪われた旋律〜悲劇の作曲家
鬼頭恭一」と題した30分特番を放映する事も決定した。
2015年末までに鬼頭に関する新聞記事は名古屋を中心に全部で13 件、テレビニュース、特集、ドキュメンタリー放送は併せて5件に及んだ。
一方これまで鬼頭恭一の足跡をずっと追って来た筆者は、この突然の展開に驚き感謝しつつも、あるジレンマに陥っていた。
やっと世間が恭一に注目してくださるようになったのに、当時確認されていた恭一の作品はわずか3曲
(うち1曲は編曲)だけだったからだ。
そこで、それまで集めた資料を改めて見直したところ、1945 (昭和20) 年10月に元婚約者が恭一の父・儀一に宛てた手紙のコピーが見つかった。
そこには恭一の遺品について、貴重な情報が記されていた。
「父上様
もうすッ可り秋になりました。只今虫が盛んに涼しく 淋しく 鳴いて居ります。
名古屋の皆様御元気の御様子安心致して居ります。私もお陰様にて、元気で居ります故、他事ながら御安心下さひませ。
早速でござゐますが 例の遺品の事ですが 又々面倒な事になりました。
実は、先日M様御見えになり、昨日三十日に土浦から遺品発送を約してゐらっしやゐました。
そしてその通りに昨日M様荷造の用意を致しまして土浦へ参りましたら、O様が十五日頃その遺品を持ツてゆかれたと、その遺品を預ツた家で申された由 M様もがツ可りされて。尚土浦の驛又、丸通迄すツ可り調べて、何時発送致した可を確かめましたところ全々送ツた形跡が無いと。斯く私に本日報告致して参りました。尚O様は、御自分の現住所は別に申し置き無い様な事で全く困り果てゝ居りますが
Z様なら、きツと御承知の事とM様が申して居りますので、早速Z様に問合せを致して置きました。色々手をつくして見ますから御あん心下さひます様に。(中略)
尚、O様の住所わかり次第 すぐ御知らせ致します。O様は、発送するとすればS様方へ出しただらうとM様は仰せです 参考迄に申して置きます。
尚六月九日、山形でとツた冩真が出来て参りましたので 同封致します.
御母上様御元気でせう可。御便り頂き度く存じて居りますがきツと御忙しい日々の事と存じます。 暮々もよろしく御傳へ下さひませ。
では急ぎ御知らせ迄 かしこ
拾月一日 T 」
(個人名はアルファベットに変更してあります)
婚約者は恭一の遺品を名古屋の儀一のもとへ送ろうとしたが、いろいろと手違いが起きて行方不明になっている様子が、詳細に記されていた。
この恭一の遺品がその後どうなったかについて、恭一のご親族は情報を持っておられなかった。
(これは元婚約者の方に、直接お尋ねするしかない・・・・)
恭一の元婚約者は1947 (昭和22) 年5月、ある作曲家と結婚されていた。その方はのちに日本を代表する作曲家
(以下O氏と記します) になり、1990 (平成2) 年に亡くなられている。
私は直ちに音楽年鑑を調べた。当時、そこには日本の主要作曲家の住所・電話番号がすべて掲載されていたからだ。 没後作曲家の欄に、求めるO氏の名があった。連絡先として奥様
(以下「Tさん」と記します) の名が記されていた。
(諸般の事情を考え、私はこれまでこの事実の公開を見合わせて来ました。しかし、Tさんが晩年に至るまで恭一の譜面を大切に保管してくださった事実を熟慮し、公開させて頂く事に致しました。)
2015 (平成27) 年4月6日、私は思い切って携帯のボタンを押した。すると、何とTさんご本人が出られた。
「突然申し訳ありません。実は鬼頭恭一さんについて伺いたいのですが・・・」
電話口の向うからたいそう驚いておられる様子が、ひしひしと伝わって来た。しかし、佐藤明子さんら恭一ご親族のお名前を出したところホッとされたようで、92歳とは思えないハッキリとした口調で、不躾な電話にもTさんはしっかりと受け答えをしてくださった。
「鬼頭恭一のことを調べておられるなら、資料を送って欲しい」
Tさんにそう言っていただき、私は早々に電話を切った。
先に記した遺品に関して書かれたTさんの手紙のコピーをはじめ、それまで恭一について調査した一部始終を直ちにTさん宛に送った。後で知った事だが、Tさんは私の電話の翌日、ご実家から神奈川県葉山町のホームに移られることになっいていた。Tさんと直接コンタクトが取れる、まさにラストチャンスだったわけだ。
後日Tさんの長女・Yさんからご連絡をいただいた。
「毋は何度も引っ越しをし荷物をその度に処分したのですが、たた一つ、いつも大切そうにしていた包みがあります。それを一度調べてみましょう」
7月中頃、それが恭一の遺品だったという連絡が来た。全く世に出ていない曲が3曲含まれていたというではないか。
「一曲はまるでシューマンの「交響的練習曲」のような出だしで、もう一曲は真ん中に軍歌のような旋律が出て来ます」
作曲家のお父様から藝大進学を勧められ、それが嫌で東大に進まれたというYさんの分析は、たいそう鋭く興味深いものであった。
私は取る物もとりあえず家を飛び出し、神奈川県へと向かった。
Yさんはクリニックの医師をつとめておられたため、診察が終るまでロビーで待たせていただいた。
初対面でどこの誰かも分からぬ私に、Yさんはとても親切に応対してくださった。
お母様のTさんについても、興味深いエピソードを数多く伺う事ができた。
Tさんが戦後結婚された作曲家・O氏は、恭一の顔を憶えていたという。
氏はその自伝の中で、恭一について
「いが栗頭のやさしそうな青年、信時潔に習っていた作曲科の生徒だった」
と記している。
Tさんから (恭一が)「訓練飛行中に墜死した」と聞いた時、「可哀そうに・・・あいつも死んだか」と思ったそうだ。 O氏は戦時中に奥様を亡くされていた。
「こうして戦後に生き残った同士が一緒になった」(同・自伝より)
1949 (昭和24)年、恭一の妹・明子さんは姉・三保子さんと一緒にO氏宅を訪れた。Tさんとの交流は、結婚後もしばらくは続いていたそうである。
数々の貴重なお話を伺ったあと、Yさんから私がお預かりしたのは、恭一が九州・築城で訓練の合間に使用した「ミュージックノート」や写真その他の資料である。
表紙には「K. Kito」と記され、裏表紙には海軍の錨のマーク、署名が記されていた。
鬼頭恭一が使用していた音楽ノート。
「アレグレット
イ短調」自筆譜 (左)、 「アレグレット
ハ長調」(1944)自筆譜 (右)
Yさんに厚く御礼を言い、さっそく譜面と遺品を田園調布にお住まいの恭一のご親族・佐藤家に届けた。
実は藝大でオープンキャンパス初の試みとして、二人の戦没音学生(鬼頭恭一と村野弘二)作品の演奏が二週間後に迫っていた。当初「雨」の演奏も検討されたが、すでに名古屋の宗次
(むねつぐ)ホールでの公開初演が決定していたため、恭一作品は1分に満たない「レクイエム
(鎮魂歌)」のみとなっていた。
私は、ただちに藝大に連絡した。
「鬼頭恭一の新しい作品が見つかりました!」
結果、新発見の2曲 (アレグレット
イ短調、アレグレット
ハ長調) が、プログラムに追加されることになった。
ただ、演奏するための楽譜が無い・・・。
徹夜を重ね、ようやくの思いで浄書譜を完成、速達で藝大に送った。
2015 (平成27) 年7月27日、藝大奏楽堂において戦後始めて戦没音楽学生の作品が演奏された。
短期間にもかかわらずヴァイオリンの澤和樹音楽学部長、ピアノの渡辺健二さんは素晴らしい演奏をしてくださった。
2015.7.27 東京藝大で初めて戦没音楽学生の作品が演奏された際のプログラム進行表。
演奏の一部は、NHKテレビ・ニュースで放送された。
だがまだ一つ、筆者には心残りがあった。恭一のご親族に、代表作「雨」を母校・藝大で聴いていただきたいと思ったのである。ダメ元でお願いしたところ「試演」という形で、永井和子さんのメゾ・ソプラノ、森裕子さんのピアノにより、オープンキャンパス本公演の前に演奏していただけることになった。
奏楽堂で行われた「雨」の素晴らしさを、今も忘れる事が出来ない。
永井さんは本番では恭一の同期生・村野弘二の歌劇「白狐」第2幕アリアを歌われたが、作品がいのちを与えられ飛び立って行くかのような、素晴らしい歌唱であった。
のちに永井さんは、次のように語っておられたという。
「音符が歌ってくれ、歌ってくれと訴えているのです・・・」
この言葉に、筆者は永井さんをお招きし、名古屋での恭一全作品(創作スケッも含む)の演奏会を開催することをを決断、12月15日の名古屋パストラーレ合奏団 特別演奏会「鬼頭恭一 メモリアルコンサート」開催へと繋がって行く。
14. エピローグ
藝大オープンキャンパス、名古屋での「雨」の初演も無事終了し、暑さも和らいできた9月16日、恭一の妹・佐藤明子さんはご主人の正知さんと共に神奈川県・葉山町のホームを訪れ、Tさんと60数年ぶりの再会を果たされた。
「恭一さんから貰ったの !」
Tさんは戸棚の引出しから海軍の帽子に付いていた紋章と音楽学校の校章を取り出し、佐藤さんたちに見せた。大切な思い出の品として持っておられたという。
(Tさんが鬼頭恭一から渡された海軍帽紋章(左)と音楽学校校章(右)。
Tさんご遺族から佐藤明子さんに託され、現在は東京藝大に保管されている)
後日、ドイツのオーケストラでヴィオラの副主席を勤めているYさんのお嬢さんが横浜で帰朝リサイタルをされた際、筆者は初めてTさんとお目にかかる事が出来た。
幾多の苦難を乗り越え、90余年を生き抜いて来られた凛とした笑顔に、
「恭一さんも、きっと雲上で喜ばれているのでは・・・」と思った。
なお私がYさんから受け取った恭一の楽譜は、遺品と共に佐藤ご夫妻から藝大に寄託された。
学徒動員80年にあたる2023(令和5)年、8月に入ってウクライナ戦争の影響もあってか、例年になく先の戦争に関する報道が増えた。 同5日、恒例の藝大コンサートに加え、朗読グループ・SWIMMYが座・高円寺2で鬼頭恭一、村野弘二を取り上げたコンサートを開催した。
8月13日には中日新聞・東京新聞が「戦没学生の遺作を効く戦争と平和を考える」と題した社説で、恭一の「雨」について詳細に報じた。また8月16日には毎日新聞がネットに「学徒出陣80年 戦没学生の遺作曲に込められた思いに迫る」と題した記事を掲載した。
その中の一節に、筆者は心打たれた。
「鬼頭氏は、音楽を学ぶ学生がいや応なしに戦争に動員され非業の死を遂げた事実を世に広め、東京芸大側に学生を戦地に送った事実を再認識させた象徴的な存在の一人。プロジェクト開始のきっかけにもなった」
恭一の元婚約者が70年間にわたり大切に保管して下さった楽譜にたどり着き、ご長女から快くお譲りいただき、恭一のご親族を通じて母校・藝大に託した2015年の事を、鮮やかに思い出した。
そして考えた。
私のとった行動には、本当に意味があったのだろうか・・・
きっと雲上の恭一さんが導いて下さったのだ、と。
2015 (平成27) 年7月に行われた藝大コンサートは、もともとオープンキャンパスに付属した催しで、聴衆も決して多くはなかった。しかし恭一の譜面が持ち込まれた事で藝大が戦没音楽学生に真摯に目を向けて下さるようになり、「戦時音楽学生WEBアーカイブス 声聴館」というサイトが立ち上げられ、同校の大石泰さん、橋本久美子さんを中心に2017
(平成29) 年、「声聴館アーカイブコンサート」が毎年夏に開催されるようになった。
恭一の自筆譜は現在、靖国神社=遊就館に2曲
(雨、レクイエム
/これらは当初、恭一の弟・哲夫から藝大に寄贈の打診が行われたが、当時の卒業生名簿に名前がなかったため叶わかった、と聞く)、藝大史料室に3曲(アレグレット2曲、無題(
(女子挺身隊の唄) = 筆者が元婚約者からお預かりし、恭一のご親族から寄託されたもの)が保管されている。
これで良かったと思うが、恭一は自らを「戦争の犠牲になった可哀想な作曲家」という目だけで見られる事は、決して望んでいないと思う。
残された数少ない楽譜から伝わって来る、真に心の奥底から沸き出でたとしか思えない純朴極まりない響き、23年という短い人生のなかで紡ぎ出された魅力的なエピソードやドラマの数々・・・
逆境の時代にあって恭一は必死に考え、行動し、見事に生き切ったのだ、と筆者は思いたい。
私たちは鬼頭恭一という作曲家を、決して忘れてはならない。(2023.8.23 岡崎隆)
最後に、私事を記させていただく無礼をお許しください。
何という偶然だろう・・・昨年暮れ、私のもとに恭一の同期生・團伊玖磨の「交響曲第5番」の演奏用浄書譜を作って欲しい、という依頼が舞い込んで来た。現在鋭意制作中で2024年、静岡県で再演される予定だ。
團の「交響曲第5番」は1965(昭和40)年、駿河銀行の依頼により作曲された。全編を通じそれまでの團の作風から一転、原点に回帰するシンフォニックな力作だ。特筆すべきは、この交響曲の中に「日本的曲想」が、ほとんど見られないことだ。思えば恭一の作品も「西欧への憧れ」は随所に感じられるが、「日本的曲想」は皆無だった。
團伊玖磨
(1924 〜 2001) / 交響曲第5番第1楽章より〜 作曲者がインキ瓶をこぼし判読不明となったページを復元した。
だが團が歌劇「夕鶴」で日本的情緒を見事に描いたように、「娘道成寺をテーマにしたオペラを書きたい」と言っていた恭一がもし生き存えていたら、やはり日本的情緒に溢れた素晴らしいオペラを生み出したのではないか・・・
そんな事を、團の自筆譜を見ながら考えた。
「恭一さん、貴方のオペラやシンフォニーの浄書譜を作りたかった ・・・」
私の拙いHPの記述をきっかけに恭一に思いを寄せて下さる皆様に、心より御礼を申し上げます。
(2023.9.18/岡崎 隆)
鬼頭恭一/レクイエム
(鎮魂歌) 自筆譜 (1942) コピー オリジナルは 靖国神社=遊就館・蔵
長調の西欧的コラール。永遠の浄化を願う恭一の思いがひしひしと伝わる作品。
歌曲「雨」
浄書譜 (楽譜作成工房「ひなあられ」制作)
なお冒頭で紹介した鬼頭恭一の弟・哲夫氏が講演したテープの中に入っていた歌曲「雨」の演奏実現にあたっては、妹・明子さんの友人である三宅悦子さん
(武蔵野音楽大学声楽科出身) の多大なご好意とご協力があったことを、最後に記しておきたい。
このホームページをご覧になった方で、鬼頭恭一について何らかの情報をお持ちの方は、是非お知らせください。
資料提供= 佐藤正知、佐藤明子、鬼頭正明、讃井優子、橋本久美子、大中恩
(参考、引用資料)
朝日新聞・名古屋版記事「響け 陣中遺作の曲」 (昭和50年9月10日)
愛知一中会機関誌「鯱光」記事「鎮海海の戦士/愛知一中出身海軍士官の大平洋戦争史」
(昭和63年12月1日)
讃井智恵子「霞ヶ浦追想」、「ただ一人の弟子」
代田 良/「惜別の譜」 (「貴様と俺」より)
東京藝大音楽部同声会による会員名簿
(平成14年12月)
東京音樂學校/同声会報 No.17
自筆譜コピー 歌曲「雨」(昭和17年)、レクイエム
(鎮魂歌)
毎日新聞記事 (平成27年6月22日)
小倉朗/自伝「北風と太陽」(新潮社)
その他複数の方々から、鬼頭恭一に関する貴重な情報と資料の提供をいただきました。
ここに厚く御礼申し上げます。
( おことわり) このホームページに記載されている文章等を、無断でプリントアウトしたり、転載・引用しないでください。
ご希望の方は、お手数でもメールをお寄せくださいますようお願いします。
(岡崎隆)
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東京藝大創立130年記念企画/戦没学生の作品演奏とシンポジウム報告
2017年7月30日(日)
東京藝術大学が創立130年を記念し、戦没学生の作品を紹介する催しを開催してくださいました。
私 (岡崎隆) は午前中のシンポジウム、午後のコンサート双方とも伺ったのですが、盛り沢山
(過ぎ?) の内容に疲れ切り、やっとの思いで帰路につきました。
このページでは鬼頭恭一についてのみ、報告させていただきます。
鬼頭の作品は《レクイエム
(鎮魂歌)》、《アレグレット
ハ長調》、《雨》の3曲が演奏されましたが、個人的には《アレグレット
イ短調》が演奏されなかったのが残念でした。演奏は《鎮魂歌》が今回はオルガンで演奏されましたが、この選択は大正解だったと思います。曲のコラール的な美しさが際立ち、その純粋さに改めて胸打たれました。また《雨》での永井和子さんの歌唱は、たいそう素晴らしいものでした。
「微笑みて、南に散りし」の箇所で、永井さんはきっぱりと「うた」を断たれます。それにより、戦没者の悲劇が私たちの胸に突き刺さるのです。
このような表現は本当に歌詞の意味を理解し、音楽に共感されなければなし得ません。永井さんの曲に対する真摯な姿勢に、心より敬意を表したいと思います。
なお永井さんは演奏会の最後に村野弘二さんの「こるはの独唱」も歌われましたが、高音域の緊迫感・延びのある声は絶品で、その説得力は素晴らしいものでした。
(イベント 詳細)
シンポジウム 11:00〜13:00 東京藝術大学第6ホール 入場無料
パネリスト 西山 伸 (京都大学教授)、佐藤 道信 (東京藝術大学美術学部教授)、橋本久美子
(東京藝術大学 大学史史料室非常勤講師)
トークインコンサート 14:00〜17:00 東京藝術大学奏楽堂 2,000円 (全自由)
演奏曲目:
葛原 守 歌曲《犬と雲》《かなしひものよ》
草川 宏 《ピアノソナタ》、歌曲《黄昏》
鬼頭恭一 歌曲《雨》、ピアノ曲《レクイエム
(鎮魂歌)》《アレグレット
ハ長調》
村野弘二 オペラ《白狐》より第二幕独唱
他
演奏:
永井和子(メゾソプラノ)、森裕子(ピアノ)他
トークゲスト:
大中 恩
(作曲家)、野見山 暁治 (洋画家)
(この催しについての詳細はこちら)
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〜鬼頭恭一がラジオ放送で取り上げられました。〜
2016年3月1日 (日) 午前8時10分〜25分の15分間、東海ラジオ『らじおガモン倶楽部』で、鬼頭恭一が取り上げられました。
インタビュアー= 森本曜子、ゲスト= 岡崎隆
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名古屋パストラーレ合奏団 特別演奏会 (2015. 12.15)
終戦を目前に才能を断たれた名古屋出身の作曲家
鬼頭恭一 メモリアルコンサート
〜東京藝大 永井和子さん、森裕子さんをお迎えして〜
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名古屋NHKテレビ「ナビゲーション」/「戦争に奪われた旋律〜悲劇の作曲家
鬼頭恭一」が放映。
(2015.8.28)
(番組案内文) 太平洋戦争中に命を落とした名古屋市の音楽家、鬼頭恭一。将来を嘱望されながら自ら特攻隊を志願、戦禍に散った。鬼頭が音楽に込めた平和への思いを探る。
■番組詳細内容 太平洋戦争の終戦間際、名古屋市出身の音楽家、鬼頭恭一は戦闘機の操縦訓練中に命を落とした。書き残した曲はほとんどなく、これまでその存在はほとんど知られていなかったが、戦後70年の今年、新たな楽譜が発見され、戦争の悲しさを訴えるその曲が注目されるようになった。戦争に翻弄されながら、音楽に込めた鬼頭の平和への思いを探る。
[キャスター] NHK名古屋放送局アナウンサー 永井伸一
鬼頭恭一「雨」、郷里・名古屋で初演。
(2015.8.11)
鬼頭恭一が唯一残した歌曲「雨」がる8月11日、名古屋・宗次ホールで行われるコーラス・グループ「ココロニ」演奏会で初演されました。
(独唱をつとめたのは成田七香さん) 午前・午後の2回の公演は共に満席で、会場には鬼頭恭一ご親族の佐藤正知・明子ご夫妻、鬼頭正明さんのほか、築城海軍航空隊で鬼頭と同期生だった稲垣弘賢さん、故・讃井智恵子さんご親族も駆け付けました。
なおこのコンサートの模様は同日のテレビ愛知「ニュースアンサー」、CBC「イッポウ」で放映され、翌12日の中日新聞、朝日新聞各朝刊に掲載されました。
鬼頭恭一の新発見曲、母校藝大で70年目に初演。(2015.7.28)
7月27日、東京藝術大学で初めて行われたオープンキャンパスの一環として奏楽堂で行われた「〜戦後70年 夢を奪われた音楽生徒〜 東京音樂學校の本科作曲部一年で出陣した二人の作品演奏会」で、鬼頭恭一の新発見
(※) を含む3作品と、村野弘二の作品が演奏されました。
当日のプログラムは次の通りです。
鬼頭恭一「レクイエム
(鎮魂歌)」 ピアノ/渡辺 健二
鬼頭恭一「アレグレット
イ短調」 (※) ピアノ/渡辺 健二
鬼頭恭一「アレグレット
ハ長調」 (※) ヴァイオリン/澤 和樹、ピアノ/渡辺 健二
村野弘二 歌劇「白狐」より〜第2幕アリア メゾ・ソプラノ/永井 和子、ピアノ/森 裕子
なおこのコンサートの模様は27日夕方のNHK名古屋「ほっとイブニング」で放映され、翌28日の東京新聞・中日新聞各朝刊に掲載されました。
藝大キャンパスコンサートを聴いて (岡崎隆)
鬼頭恭一の新発見作品 (2015.7.14)
これまで知られていなかった鬼頭恭一の作品が3曲、新たに発見されました。
いずれも習作的なものですが構成が明解で、明るく清々しい抒情を漂わせています。
これらの譜面を大切に保管して下さった方に、心より御礼申し上げます。
今後は鬼頭ご親族はじめ各方面のご了解をいただき、演奏の実現を目指して参りたいと思っております。(岡崎隆)
1. アレグレット
ハ長調 ( 独奏楽器 (Vn, Fl, など) + ピアノ/66小節) (「昭和19年7月6日/築城空にて」の書込みあり)
2. アレグレット
イ短調 (ピアノ独奏曲/186小節)
3. 題名なし(女子挺身隊の唄) (歌 + ピアノ/20小節)
鬼頭恭一/新聞記事 (2015〜23)
東京新聞朝刊 「早世の作曲家 音色を現代に」 (4.30)
中日新聞夕刊 「早世の才能 音色響け」(4.30)
中日新聞夕刊 (名古屋版) 「戦渦の作曲家 何思う」(6.15)
毎日新聞朝刊「もう一つの才能の死」(6.22)
中日新聞朝刊 (名古屋版) 「戦渦の作曲家の遺作 8月に披露」(6.24)
朝日新聞夕刊 「学徒 悲嘆の遺作曲/8月披露 戦争の悲惨さ表現」(6.24)
東京新聞朝刊「早世の作曲家70年後の初演 新たに発見の楽曲 母校に響く」(7.28)
中日新聞朝刊「作曲家鬼頭恭一海軍で残す 優しき未発見曲 母校で初演奏」(7.28)
読売新聞朝刊 (愛知版) 「散った才能 残した歌曲/未発表作「雨」11日に披露」(8.9)
毎日新聞朝刊 (愛知版) 「故・鬼頭恭一さん 未発表曲「雨」を初披露」 (8.10)
朝日新聞朝刊 (愛知版) 「志貫いた歌曲初演 故郷名古屋で平和願う調べ」(8.12)
中日新聞朝刊 (愛知版) 「終戦直前死亡、鬼頭恭一の未発表曲 地元名古屋で初披露」(8.12)
毎日新聞夕刊 (中部版) 「悲しみの歌初演 奪われた才能 発掘し世に」(8.18)
日本経済新聞夕刊 「戦没作曲家 楽譜は散らぬ 戦後70年、埋もれた楽曲を発掘・演奏」(10.5)
朝日新聞夕刊 (愛知版) 「学徒の祈り 思いはせ 遺作演奏会15日に」(12.4)
中日新聞夕刊 (名古屋版)「鎮魂と非戦の調べ総決算 鬼頭恭一の遺作演奏会」(12.8)
読売新聞朝刊 (西部本社版) 「音楽生徒 生きた証し/埋もれた歌曲 時空超え響く」(2017.8.16)
東京新聞 「戦没学徒の遺作を東京芸大の後輩が奏でる 来月5日 杉並区で平和の調べ ウクライナ避難民支援も」(2023.7.23)
日本経済新聞・文化欄 「戦前の管弦楽曲に光を 埋もれた楽譜を発掘し蘇演へ」(岡崎隆)
(2023.8.5)
中日新聞・東京新聞
(社説) 「戦没学生の遺作を聴く 戦争と平和を考える」(2023.8.13)
毎日新聞東京版夕刊「あした天気になあれ 鎮魂歌は時を超えて」(小国綾子)
(2023.8.15)
毎日新聞
「キャンパる 学徒出陣80年 戦没学生の遺作曲に込められた思いに迫る」(2023.8.16)
鬼頭恭一にお心を寄せて下さった皆様に対し、一研究者として心より御礼申し上げます。
(岡崎隆)
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