日本の作曲家たち/ 10    鬼頭恭一 

    (1922 〜 45)      2017.8.20 更新     

     

  昭和20年4月8日 少尉任官を前に  (写真提供/鬼頭正明)


 この文章を記すにあたり、鬼頭恭一氏についての講演会の録音テープを提供くださいました音楽の世界社の小宮多美江様、数多くの資料をお送りくださいました佐藤正知様・明子様ご夫妻 (鬼頭恭一氏ご遺族)、鬼頭正明様 (鬼頭恭一氏・甥)、橋本久美子様 (東京藝術大学アーカイブセンター)、讃井優子様 (讃井智恵子様ご遺族) 、大中恩様 (作曲家。鬼頭恭一・同期生)、そして貴重な情報をお寄せ下さった秋水会事務局の柴田一哉様に、心より御礼申し上げます。
 なお文中では鬼頭恭一氏はじめ、皆様の敬称を略させていただいております。また姓・お名前のみを表記をしている箇所もありますが、どうぞ悪しからずご了承下さい。 ( 2017.8.20 岡崎 隆 )

鬼頭恭一が妹に宛てた葉書5葉をUPしました。(2017.5.9 改訂)
鬼頭恭一の歌曲「雨」の音源 をUPしました。(2017.4)

     ソプラノ: 三宅 悦子、ピアノ:佐藤 明子 (1975年9月22日 録音)

鬼頭恭一が婚約者に宛てた手紙 (昭和19年秋) をUPしました。(2017.4)


 鬼頭恭一氏が九州・築城航空隊で交流を持った讃井智恵子さんとのエピソードを大幅に加えています。
また讃井さんの「ただ一人の弟子」全文を掲載しました。
鬼頭恭一氏の甥・鬼頭正明様から多数のお写真を提供をいただき、拙HPに掲載させていただきました。
ここに、厚く御礼申し上げます。

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東京藝大創立130年記念企画/戦没学生の作品演奏とシンポジウム報告

  2017年7月30日(日)

東京藝術大学が創立130年を記念し、戦没学生の作品を紹介する催しを開催してくださいました。
私 (岡崎) は午前中のシンポジウム、午後のコンサート双方とも伺ったのですが、盛り沢山 (過ぎ?) の内容に疲れ切り、やっとの思いで帰路につきました。
このページでは鬼頭恭一についてのみ、報告させていただきます。

鬼頭の作品は《鎮魂歌》、《アレグレット ハ長調》、《雨》の3曲が演奏されましたが、個人的には《アレグレット イ短調》が演奏されなかったのが残念でした。演奏は《鎮魂歌》が今回はオルガンで演奏されましたが、この選択は大正解だったと思います。曲のコラール的な美しさが際立ち、その純粋さに改めて胸打たれました。また《雨》での永井和子さんの歌唱は、たいそう素晴らしいものでした。
「微笑みて、南に散りし」の箇所で、永井さんはきっぱりと「うた」を断たれます。それにより、戦没者の悲劇が私たちの胸に突き刺さるのです。
このような表現は本当に歌詞の意味を理解し、音楽に共感されなければなし得ません。永井さんの曲に対する真摯な姿勢に、心より敬意を表したいと思います。
なお永井さんは演奏会の最後に村野弘二さんの「こるはの独唱」も歌われましたが、高音域の緊迫感・延びのある声は絶品で、その説得力は素晴らしいものでした。

(イベント 詳細)

シンポジウム 11:00〜13:00  東京藝術大学第6ホール 入場無料

パネリスト 西山 伸 (京都大学教授)、佐藤 道信 (東京藝術大学美術学部教授)、橋本久美子 (東京藝術大学 大学史史料室非常勤講師)

トークインコンサート 14:00〜17:00  東京藝術大学奏楽堂 2,000円 (全自由)
演奏曲目:
葛原守 歌曲《犬と雲》《かなしひものよ》
草川 宏 《ピアノソナタ》、歌曲《黄昏》
鬼頭恭一 歌曲《雨》、ピアノ曲《鎮魂歌》《アレグレット》
村野弘二 オペラ《白狐》より第二幕独唱

演奏:
永井和子(メゾソプラノ)、森裕子(ピアノ)他

トークゲスト:
大中 恩 (作曲家)、野見山 暁治 (洋画家)


(この催しについての詳細はこちら)
https://readyfor.jp/projects/geidai130-senbotsu


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〜鬼頭恭一がラジオ放送で取り上げられました。〜
2016年3月1日 (日) 午前8時10分〜25分の15分間、東海ラジオ『らじおガモン倶楽部』で、鬼頭恭一が取り上げられました。

インタビュアー= 森本曜子、ゲスト= 岡崎隆

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 名古屋パストラーレ合奏団 特別演奏会 (2015. 12.15)      
  終戦を目前に才能を断たれた名古屋出身の作曲家
    鬼頭恭一 メモリアルコンサート         

    〜東京藝大 永井和子さん、森裕子さんをお迎えして〜

   (クリックで拡大します)

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名古屋NHKテレビ「ナビゲーション」/「戦争に奪われた旋律〜悲劇の作曲家 鬼頭恭一」が放映。
(2015.8.28)

(番組案内文) 太平洋戦争中に命を落とした名古屋市の音楽家、鬼頭恭一。将来を嘱望されながら自ら特攻隊を志願、戦禍に散った。鬼頭が音楽に込めた平和への思いを探る。
■番組詳細内容  太平洋戦争の終戦間際、名古屋市出身の音楽家、鬼頭恭一は戦闘機の操縦訓練中に命を落とした。書き残した曲はほとんどなく、これまでその存在はほとんど知られていなかったが、戦後70年の今年、新たな楽譜が発見され、戦争の悲しさを訴えるその曲が注目されるようになった。戦争に翻弄されながら、音楽に込めた鬼頭の平和への思いを探る。[キャスター] NHK名古屋放送局アナウンサー 永井伸一


鬼頭恭一「雨」、郷里・名古屋で初演。 (2015.8.11)

 鬼頭恭一が唯一残した歌曲「雨」がる8月11日、名古屋・宗次ホールで行われるコーラス・グループ「ココロニ」演奏会で初演されました。
(独唱をつとめたのは成田七香さん) 午前・午後の2回の公演は共に満席で、会場には鬼頭恭一ご親族の佐藤正知・明子ご夫妻、鬼頭正明さんのほか、築城航空隊で鬼頭と同期生だった稲垣弘賢さん、故・讃井智恵子さんご親族も駆け付けました。

なおこのコンサートの模様は同日のテレビ愛知「ニュースアンサー」、CBC「イッポウ」で放映され、翌12日の中日新聞、朝日新聞各朝刊に掲載されました。

鬼頭恭一の新発見曲、母校藝大で70年目に初演。(2015.7.28)

 7月27日、東京藝術大学で初めて行われたオープンキャンパスの一環として奏楽堂で行われた「〜戦後70年 夢を奪われた音楽生徒〜 東京音楽学校の本科作曲部一年で出陣した二人の作品演奏会」で、鬼頭恭一の新発見 (※) を含む3作品と、村野弘二の作品が演奏されました。
当日のプログラムは次の通りです。

鬼頭恭一「鎮魂歌 (レクイエム)」  ピアノ/渡辺 健二
鬼頭恭一「アレグレット イ短調」 (※)  ピアノ/渡辺 健二 
鬼頭恭一「アレグレット ハ長調」 (※)  ヴァイオリン/澤 和樹、ピアノ/渡辺 健二
村野弘二 歌劇「白狐」より〜第2幕アリア メゾ・ソプラノ/永井 和子、ピアノ/森 裕子

なおこのコンサートの模様は27日夕方のNHK名古屋「ほっとイブニング」で放映され、翌28日の東京新聞・中日新聞各朝刊に掲載されました。

藝大キャンパスコンサートを聴いて (岡崎隆)


鬼頭恭一の新発見作品 (2015.7.14)

 これまで知られていなかった鬼頭恭一の作品が3曲、新たに発見されました。
いずれも習作的なものですが構成が明解で、明るく清々しい抒情を漂わせています。
これらの譜面を大切に保管して下さった方に、心より御礼申し上げます。
今後は鬼頭ご親族はじめ各方面のご了解をいただき、演奏の実現を目指して参りたいと思っております。(岡崎隆)

1. アレグレット ハ長調 ( 独奏楽器 (Vn, Fl, など) + ピアノ/66小節) (「昭和19年7月6日/築城空にて」の書込みあり)
2. アレグレット イ短調 (ピアノ独奏曲/186小節)
3. (題名なし) (歌 + ピアノ/20小節)


鬼頭恭一/新聞記事 (2015〜7)

 東京新聞朝刊 「早世の作曲家 音色を現代に」 (4.30)
 中日新聞夕刊 「早世の才能 音色響け」(4.30)
 中日新聞夕刊 (名古屋版) 「戦渦の作曲家 何思う」(6.15)
 毎日新聞朝刊「もう一つの才能の死」(6.22)
 中日新聞朝刊 (名古屋版) 「戦渦の作曲家の遺作 8月に披露」(6.24)
 朝日新聞夕刊 「学徒 悲嘆の遺作曲/8月披露 戦争の悲惨さ表現」(6.24) 
 東京新聞朝刊「早世の作曲家70年後の初演 新たに発見の楽曲 母校に響く」(7.28)
 中日新聞朝刊「作曲家鬼頭恭一海軍で残す 優しき未発見曲 母校で初演奏」(7.28)
 読売新聞朝刊 (愛知版) 「散った才能 残した歌曲/未発表作「雨」11日に披露」(8.9)
 毎日新聞朝刊 (愛知版) 「故・鬼頭恭一さん 未発表曲「雨」を初披露」 (8.10)
 朝日新聞朝刊 (愛知版) 「志貫いた歌曲初演 故郷名古屋で平和願う調べ」(8.12)
 中日新聞朝刊 (愛知版) 「終戦直前死亡、鬼頭恭一の未発表曲 地元名古屋で初披露」(8.12)
 毎日新聞夕刊 (中部版) 「悲しみの歌初演 奪われた才能 発掘し世に」(8.18)
 日本経済新聞夕刊 「戦没作曲家 楽譜は散らぬ 戦後70年、埋もれた楽曲を発掘・演奏」(10.5)
 朝日新聞夕刊 (愛知版) 「学徒の祈り 思いはせ 遺作演奏会15日に」(12.4)
 中日新聞夕刊 (名古屋版)「鎮魂と非戦の調べ総決算 鬼頭恭一の遺作演奏会」(12.8)
 読売新聞朝刊 (西部本社版) 「音楽生徒 生きた証し/埋もれた歌曲 時空超え響く」(2017.8.16)

 鬼頭恭一にお心を寄せて下さった皆様に対し、一研究者として心より御礼申し上げます。 (岡崎隆)

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鬼頭恭一作品の楽譜・音源を希望される方へ

 ご親族の了承をいただき、鬼頭恭一作品の浄書譜面と録音 (CD) セットを希望される方にお届けしています。
詳細は以下の通りです。なおこのセットには、小冊子「鬼頭恭一」が添付されます。


 (楽譜)
歌曲「雨」
(昭和19年11月3日)  (ソプラノ独唱、ピアノ/全67小節) 演奏時間 = 4分30秒
鎮魂歌 (レクイエム) (昭和17年) (4声曲。オルガンまたはピアノ/全17小節) 演奏時間 = 約1分
惜別の譜 (昭和20年5月17日) (讃井智恵子: 作曲、鬼頭恭一: 編曲) (4部合唱 (無伴奏) /全16小節) 演奏時間 = 約1分
アレグレット ハ長調 (「昭和19年7月6日/築城航空隊にて」の書込みあり)
( 独奏楽器 (Vn, FL,など) + ピアノ/66小節) 演奏時間= 3分42秒
アレグレット イ短調 作曲年代不詳 (ピアノ独奏曲/186小節) 演奏時間= 4分6秒

 (録音)
講演「兄・鬼頭恭一」
 鬼頭 哲夫
(1990年代、大須ロータリークラブの席上で、当時会長をつとめていた鬼頭恭一の実弟・哲夫氏が行ったもの)
歌曲「雨」  ソプラノ: 三宅 悦子、ピアノ:佐藤 明子
(1975年9月22日 録音)
(以下 MIDI音源)
鎮魂歌 (レクイエム) 、惜別の譜アレグレット ハ長調アレグレット イ短調


ご希望の方、お問合せはこちらまで



鬼頭恭一氏の従弟で日本大学名誉教授の佐藤正知さんご夫妻 (奥様は恭一氏の実妹) が、拙ページに文章をお寄せ下さいました。
 ここに心より御礼申し上げます。(2015.3)

  〜 思い出すままに 〜 ( 佐藤正知・明子 )

  鬼頭恭一/資料を受取られた方からのお便り

鬼頭恭一と九州・築城航空隊で交流のあった

讃井智恵子「霞ヶ浦追想」、「ただ一人の弟子」、代田良「惜別の譜」

全文を掲載しました。(2015.11.18)


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  終戦を目前に才能を断たれた名古屋出身の作曲家・鬼頭恭一

      (写真提供/佐藤正知、明子)

 今 (2015 年)から15 年以上も前のことだ。音楽の世界社の小宮多美江様から、一本のカセットテープをいただいた。
そこには、先の戦争のため僅か23才という若さでその生命を断たれた鬼頭恭一という名古屋出身の作曲家の生涯が実弟の鬼頭哲夫氏により語られ、末尾に恭一が特攻部隊の訓練中に作曲したという歌曲「雨」が収録されていた。
 拙「日本の作曲家たち」シリーズに、この鬼頭恭一という作曲家を取り上げる事は、そぐわないかも知れない。というのは、現在確認されている彼の作品はこの「雨」と、1942年2月にビルマで戦死した従兄・佐藤正宏の追悼のため作曲した「鎮魂歌 (レクイエム) 」、そして2015年7月に発見された3曲しかないのだから。
(他に音楽学校同窓生・讃井 (さぬい) 智恵子の小品を編曲した「惜別の譜」の譜面が残されている)
 しかし私は、時代の逆境により無惨に命を断たれたこの才能溢れる作曲家のことを、同じ名古屋地域に住む者として、一人でも多くの人に知っていただきたいという思いから逃れる事が出来なかった。
 そこで「何かしらの情報が得られれば」と、鬼頭恭一のホームページを開設した。
名古屋周辺には「鬼頭」姓が多い。鬼頭さんという方に出会うたび、「鬼頭恭一をご存知ですか? 」と訊ねた。
しかし何の情報も得られないまま、空しく10年の時が流れた。


「この作曲家とは、もう永遠に縁がなかったのかもしれない・・・」


 そう思いかけていた頃、「秋水会」の事務局員をつとめておられる西東京ITサービスの柴田一哉さんから、突然メールをいただいた。
柴田氏は「秋水」関係者の消息を調べておられ、同会には鬼頭氏についての情報もあった。私は驚喜した。
 上記のカセットテープを頼りに、柴田氏による鬼頭恭一のご家族・関係者の調査が始まった。
後で伺ったところによると柴田さんは電話帳を手に、名古屋の「鬼頭さん」に片っ端から電話をされたという。しかし、確たる情報はなかなか得られなかった。

 平成26 (2014) 年末、鬼頭家が営んでいた酒問屋をきっかけに、遂に恭一の関係者に辿り着く事ができた。実妹で現在東京にお住まいの佐藤明子さんは、「まるで奇跡のよう」と仰ってくださったということだ。
その後、明子さんの夫・正知さんから、恭一に関する様々な資料が送られて来た。
カセットテーブに収められていた恭一についての講演は1998年8月20日、名古屋大須ロータリークラブ例会で「若き戦没音楽学生の遺したもの」というテーマで、同クラブ前会長の鬼頭哲夫氏によって行われたものであり、歌曲「雨」の録音は1975年9月22日、かつて恭一が暮していた東京・東玉川の部屋で録られたものだ、ということも判明した。この録音は恭一の東京音楽学校選科での同期生・讃井智恵子さんの依頼を受け行われたもので、収録にあたってピアノを担当した佐藤明子さんは仕事を中断し、歌の三宅悦子さんと共々全身全霊をかけ取り組まれたということだ。
 恭一の写真とも初めて対面した。
「何と純粋な顔をされているのだろう・・・」
万感の思いが迫って来た。10年以上空欄だった拙ホームページ冒頭に、ようやく恭一の写真が掲載できる・・・私はこの日を、ずっとずぅーっと待っていたのだ。

 佐藤様から送られた「雨」の自筆譜をもとに、さっそく演奏用浄書譜作成に取りかかった。
その過程で、作品に込められた恭一の強い「思い」に、ただただ圧倒された。戦死者の遺骨が帰ってくる場面の何と激しく、また悲しい事だろう。戦争の悲惨さ・理不尽さを痛々しいまでに表したこの作品は戦後70年にあたる本年 (2015年)、何としても再演させなければいけない、と思った。
 名古屋にかつてこのような作曲家がいたこと、そしてその溢れる才能は戦争により無惨にも散らされたという事実を、もし記憶の片隅に留めていただけるならば、まことに幸いである。

                                 

 幼少から東京音楽学校入学まで


 鬼頭恭一は大正11 (1922) 年6月10日、名古屋中心地で酒問屋を営む父・儀一、母・成子の四人兄妹の長男として生まれた。(血液型 = O 型)

    
            鬼頭恭一・幼時   (写真提供/鬼頭正明)

彼は幼い頃から「珍しいもの、新しいもの」を好み、やりたいことや欲しいものはとことん追求しなければ気が済まない「やんちゃくちゃ」(当時の名古屋弁) な腕白小僧で、しょっちゅう両親を困らせていた。科学雑誌「子供の科学」を定期購読し、二才年下の弟・哲夫を巻き込み模型飛行機や発電機、モーターなどの制作に夢中になり、時には手製地雷などを創作し野外で爆発させ、大人たちを驚かせる事もあった。一方、JOCK (現NHK名古屋) にハーモニカで出演したり、子供劇団に参加して主役を演じたりしている。

      

       恭一、弟・哲夫、母・成子 (写真提供/鬼頭正明)


勉強などまったくしなかったにもかかわらず (哲夫氏・談) 、昭和10 (1935) 年、名門・愛知一中 (現・旭ヶ丘高校) に合格する。進学してからの恭一は相変わらず勉強はそっちのけで、自分の好きな事だけをやる不良少年であった (同)。しかし正義感は人一倍強く、同級生にビンタを喰らわせた教師に詰め寄り、謝罪を勝ち取った事もあるという。
 そんな恭一が四年生の頃突然「音楽で身を立てる」と言い出す。その思いは一途なもので、他の教科に全く興味を持たなくなるほどであった。恭一の弟・哲夫の証言によれば、母・成子の親戚に邦楽を業とする者がおり、鬼頭家のような商家では習い事をするのが一般的であった。ただ恭一は子供の頃から、邦楽よりも西洋音楽に興味を持っていた。人生で最も感受性の鋭い時期に、そうした志向が一気に華開いたに違いない。

子供の頃はあまり弾かなかったピアノのレッスンを受けるため、出かける時商家の玄関からでは気まずいので、二階の裏窓から外出着と楽譜を縄で吊り下ろしたあと下着に近い格好で家を出、外で服を着てレッスンに通い、また何食わぬ顔で帰り荷物を二階に吊り上げたということだ。

    愛知一中の制服を着て
          (写真提供/鬼頭正明)


 昭和15 (1940) 年3月、落第スレスレの成績 (哲夫氏・談) で愛知一中を卒業後した。
明治25年に祖父が創業した酒問屋を継げと説得する両親の猛反対を押し切り家出同然で上京、東京音楽学校作曲科を受験したものの不合格となり、田園調布にある親戚の家に身を寄せながら、さらに本格的な音楽の勉強を開始した。
 同年9月7日、恭一は東京音楽学校・選科に入学する。当時の「選科」は「上野の分教場」とも呼ばれており、子供から音校受験生、社会人まで広く門戸を開き専門実技を教えていた。「選科」入学式での恭一の様子を、同期の讃井 (さぬい) 智恵子は次のように記している。

 「入学式のとき、黒い詰衿の学生服を着た、作曲科の男の子がいた。童顔の、いやに生っ白いのが印象に残っていた」

 息子の強い決意を知った両親は家業を継がせる事をあきらめ、その学費の支援をすることとなる。かつて文士に憧れ、祖父が興した酒問屋を継ぐ事に抵抗を持った経験のある父・儀一は、恭一に若き日の自分の姿を重ねていたのかも知れない。両親からピアノを買ってもらい、練習に励む日々が始まった。この頃同居し交流を持った従弟の佐藤正知は、恭一から「君たち兄弟をテーマにしたオペラを書くつもりだ」と、真面目か冗談かわからない調子で言われたという。
 やがて恭一は親戚宅近くの借地に小さな家を建ててもらい、遠縁の叔母の世話を受けながら選科のレッスンに通うと共に、ピアノを水谷達夫、作曲を細川碧の個人教授で勉強を重ねた。ただ毎日毎日あまりにも熱心にピアノを弾き続けたため、近所から「時局柄不謹慎である! 」と新聞に投書されたりもしている。
しかし恭一は、決して挫ける事はなかった。

 「ピアノを弾いて何が悪いんだ!」

「時代の空気に一人で反発していたのかも知れません」と、佐藤正知は述懐する。

 この頃満州国奉祝楽曲の募集があり、恭一はそれに応募し入選、満州国より七宝焼の立派な花瓶が贈られた。

 「ベットに腹ばいになって、角砂糖かじりながら書いた曲が入って、申し訳ないことしちゃった」

八重歯を見せ、すまなそうに言っていた恭一の顔を、讃井智恵子はよく憶えていた。
(ただこの譜面も花瓶も、昭和20年3月12日の名古屋大空襲で実家と共に焼失してしまったという)

 のちに婚約する女性と出会ったのも、選科の頃であった。彼女は東洋音楽学校で学び、放送合唱団に属していた。その出会いは恭一の「友達の友達」の紹介だったという。ただ二人ともたいそう引っ込み思案でなかなか交際は進まず、業を煮やした彼女の姉は「あななたたち、たまにはお茶飲みにカフェに行くとか、映画見に行くとかしたらどうなの!」と、いつも二人にハッパをかけていたということだ。

 こうして音校作曲科合格を目指し日々勉学に励む恭一であったが、戦争への足音はひたひたと確実に忍び寄っていた。
上京した翌16年12月、真珠湾攻撃を皮切りに日本はついに米英との戦争に突入する。翌17年2月、恭一のもとへ早くも戦争による悲報が届く。居候していた佐藤家の長男・正宏が、ビルマで戦死したのだ。恭一はただちに彼を追悼する「鎮魂歌」(レクイエム) を作曲し、献呈した。
この「鎮魂歌」が、現在残されている恭一の作品中、最も初期のものである。

 昭和17 (1942 ) 年4月、恭一は二浪の後ようやく東京音楽學校 (現・東京藝術大学) 作曲科・予科への入学を果たす。この時の同期は団伊玖磨、大中恩であった。音楽學校では信時潔、細川碧ら錚々たる教授陣に作曲を師事するほか指揮法なども学んだ。翌18年4月には作曲科・本科へ進級、同期には團、大中のほか島岡譲、竹上洋子、村野弘二らがいた。

  

   (東京音楽学校制服を着て 中学時代からの親友・吉田滋と 昭和17年10月)
          (写真提供/鬼頭正明)



 しかし戦況は次第に悪化し、音楽學校を取り巻く環境も厳しさを増していた。「成人男子が音楽ごときにうつつを抜かすとは何事か」という風潮が蔓延し、時代は音楽家にとり完全に逆境と言っていい時代になっていたのだ。音楽学校生も戦争遂行に協力する他に、生き残る術はなかった。
 当時を伺わせる、恭一の同期生・大中恩が記した文章を次に紹介したい。

 昭和18年7月、音楽學校生徒は軽井沢で行われた「学徒挺身隊」という名の軍事教練に参加した。一週間位行っていたと思う。他の大学や専門学校の生徒も来ていたが、各学校ごとに纏まって行動していた。僕はそこで管楽器の上級生に殴られた。そのとき「作曲科の奴ら生意気だ」という言葉が飛んできた。その頃の管楽器の生徒の中には、音楽学校へ来る前に学校の先生なんかやってた人が何人かいて、そういう人達からみれば、僕なんか生意気に見えたかも知れない。しかしそういう時に、團伊玖磨なんかは殴られなかった。彼は「やんごとなき家の生まれ」(註/團の父親は男爵・團伊能) だったので、特別扱いされていたようだ。僕は後日海軍に入って日常的に殴られたが、人に殴られたというのは、軽井沢が初めてだった」(東京音楽學校/同声会報 No.17 より)


 
2016年4月、筆者は大中氏から直接、鬼頭恭一について伺う機会を得た。
短い音校生活の中、束の間の青春を謳歌していた鬼頭の様子がありありと伺える、貴重な証言である。

 音校時代僕は副科でラッパやってたんだけど、ある日鬼頭が「ちょっとラッパ持って、一緒に来てくれ」って言うんだ。
どこ行くのかなーとついてったら、寮らしい建物の前で「ラッパ吹け」という。
何でこんなとこで、と思いながらパッパーとやったら、窓から一斉に若い女の子が顔を出した。もう恥ずかしったらありゃしない。
やがて玄関から一人の女の子が出てきて、鬼頭と嬉しそうに喋ってる。「あー彼女がいるんだ、いいなあ」と思ったね。

 当時僕の家は教会だったんだけど、鬼頭と團 (伊玖磨)が「パイプオルガンが見たい」と言うので、一緒に連れて行ったんだ。
たまたま親父 (大中寅二)がいて出て来たんだけど、鬼頭はまったく怯む様子もなく、生意気な事をいっぱい喋ってる。もうこちらはハラハラ。でも二人が帰ったあと親父が「あの鬼頭という男は、なかなか骨のある奴だ」と言っていた。
若い音校生と話ができて、親父もきっと嬉しかったんじゃないのかな。

 昭和17年、東京音楽学校管弦楽団と合唱団は、満州国十周年慶祝演奏旅行を挙行した。恭一の弟・哲夫によれば、この際演奏された「奉祝歌」は恭一が作曲したものだった可能性があるという事である。



  海軍航空隊へ


 昭和18年6月、東条内閣は「学徒戦時動員体制確立要項」を閣議決定、学徒への動員猶予は撤廃され、本来ならば昭和20年卒業予定の恭一ら本科生も18年9月、進級僅か5か月後に繰上げ卒業を余儀なくされる。その先に待っているのは軍務であった。9月21日、内閣は学生の徴兵猶予の全面停止を決定。徴兵検査で合格した者は全員、陸軍か海軍のどちらかに入隊せざるを得なくなった。
 当時音校生は卒業後、陸軍戸山学校軍楽隊に進む者が多かった。軍楽隊であれば、前線に送られる可能性は低いと考えられていたからだ。しかし恭一は「どうせ軍隊に行くんだったら、俺は海軍航空隊に入る ! 」と言い出し、またまた猛反対する両親を押し切り、入隊を実行してしまう。
10月21日、降りしきる雨の中挙行された明治神宮外苑競技場で挙行された学徒出陣大壮行会のスタンド。東京音楽学校吹奏楽団の一角に、恭一も座っていた。

 学徒出陣送別会の席で恭一は親友・吉田滋に向い、「軍隊に入ったら要領よくやらなきゃ駄目だ。とにかく前に出たら駄目だ」
「ベルリン・フィルハーモニーに演奏させて、自分が指揮をとるのが夢だ」
と語っていたという。

 11月に海兵団入隊後航空機操縦士の適性検査に合格、12月に学徒動員令が下るや10日、第一期飛行専修予備生徒として学徒出陣、呉鎮守府大竹海兵団に入団、翌19年2月に三重海軍航空隊に入り5月には基礎教程を終了した。
この頃父親・儀一と三重県・津まで面会に行った恭一の妹・明子は、その時の思い出を次のように語っている。

「子供の頃厳しかった兄が、面会に行った時はとても優しくなって・・・でも私は、そんな兄が嫌でした」



 鬼頭恭一/家族写真 (昭和18年11月28日 恭一の出征を記念して)  (写真提供/鬼頭正明)
 写真左より妹・三保子 (1930〜2016)、母・成子 (1904〜88)、父・儀一 (1895〜1958)、妹・明子 (1932〜 )、恭一、弟・哲夫 (1924〜2004)



 やがて恭一は少尉候補生に任ぜられ、福岡県の築城 (ついき) 海軍航空隊に転勤する。築城は瀬戸内海に面した穏やかな農村であったが、海軍航空隊の主要基地があった。
 一種軍装を身にまとい、恭一は満足そうに語っていたという。

 「同期の團伊玖磨は、陸軍の軍楽隊に入ったが、海のほうが、何と行ってもスマートだから」

 海軍入隊後も、恭一の音楽に対する情熱は決して萎える事はなかった。
築城航空隊で同期だった代田良はのちに「惜別の譜」 (「貴様と俺」より) で、築城時代の恭一について次のように記している。

 厳しい訓練にあけくれた飛行時間の合間に、あるいは夜のわずかな休憩時間に、生徒館の一隅で端正な顔をかたむけて、ひとり五線紙にペンを走らせている彼をみることがあった。そんなとき実のところ私は、この激しい訓練の中にあって、なお物に憑かれたように作曲にはげむ彼の姿に、驚きと畏敬にも似たものを感じないわけにはゆかなかった。そして彼が自分とは別の社会の人のようにさえ思えた。

 学業途中で海軍に入った彼は上野の音楽学校出身だということで、築城では軍歌演習の指導を受け持たされた。日曜日の夕方軍歌集を高く揚げ、歌いながら行進する二百数人の同級生の大きな輪の中心に、恭一はすっくと立っていた。「如何に強風」とか「黄海の海戦」とかの海軍特有の軍歌をまず彼が一節づつ歌った。同期の総員は恭一が一節を歌うと、それに続けて声をはりあげた。作曲科出身の彼にとっては、この役目は必ずしも嬉しくはなかったと思うが、我々からみればその時の彼は颯爽としていた。


  歌曲 「雨」


 築城に移って5ヶ月ほど経った秋、恭一は一曲の歌曲を完成した。それが冒頭で紹介した「雨」である。
自筆譜には「皇紀2604 (註/昭和19) 年10月30日〜11月3日作曲完成」という書き込みがなされている。
連日の猛訓練の束の間のひととき、彼は近所の国民学校 (小学校) や女学校になどに出かけオルガンを弾いていたという。
「雨」の詩は、面会に訪れた婚約者が持参した婦人雑誌に掲載されていたもので、和歌山の清水史子の手によるものであった。
「雨」の詩に感じ入った恭一は、わずか5日間で曲を完成させた。それがこんにち、たった一曲残された歌曲「雨」である。

 恭一は音楽の勉強を通して日頃から外国人との交流も多く、当時併合されていた朝鮮で反日活動を行っていた人々との接点もあった。排他的な日本外交には常に批判的で、家族との最後の面会の際も「日本はもう見込みが無い」と語っていたという。
「俺は絶対死なない。間違っても死ぬようなバカなことはしない」と語っていた恭一ではあったが、自らの行く末を密かに覚悟していたのだろうか。「雨」は、恭一の、まさに遺言ともとれる作品なのだ。
 平成27 (2015) 年、ご遺族から自筆譜の提供を受け、浄書譜の作成を行いプレイバックを聴いた時音符のひとつひとつに込め抜かれた恭一の思いが痛々しいまでに感じられ、全身が震えるほどのショックを受けた。何と強烈な「思い」であろう・・・・戦争により理不尽に命を奪われる悲劇を音楽として具現化したメッセージとしか感じられないのだ。言論統制が熾烈を極めた当時、反戦の意志を示すにはこのような表現が精一杯だったのではと思われる。(同様な形での密かな反戦の意志表示は、平尾貴四男の「おんたまを故山に迎ふ」(1942) にも見られる。)

「雨」作曲の9か月後、恭一はこの作品で描かれている情景と同じ運命を辿ることとなる。いったい恭一はどのような思いで、この作品の筆を進めたのだろうか。
 戦後70年となる本年 (2015年)、「雨」は是非とも現代の日本人に聴いてほしい、いや聴かれるべき作品だと思う。

 「雨」創作スケッチ

(右下の方に黒いシミが4箇所付いている。筆者の想像だが、作曲中感極まった恭一が落涙し、それをペン先で吸い取った跡のように思えてならない)



 曲は白い橘が香る、初夏の平和な故郷の情景から始まる。 四分音符単音で奏される「ド・ラ・レ」音型の前奏に続き、歌が入る5小節目からピアノの右手で奏される同じ音型の3連音符が美しい。この3つの音は、平和な故郷に静かに降りつづく細かな雨を表しているのだろう。
 しかし無気味な経過部 (18小節) のあと曲は突然ニ短調に転じ、戦死者の遺骨が帰って来た事を表す。ピアノの左手が奏する16分音符の細かい動きは、悲嘆にくれる恋人の心情であろうか。歌詞とピアノの叫ぶような悲しい掛け合いが続き、36小節「メノ・モッソ (今までより遅く)」/「ますらをの 形見届きぬ」の箇所で、ハ短調の重々しい和音が現れる。この和音は「ド・シ・ラ・ソ」と降下して行き、39小節から4小節の間、ピアノの左手に3連符と8分音符の単音が27回続く、まことに印象的な箇所に至る。この部分を聴いた人の多くが、ショパン「雨だれの前奏曲」の中間部を想像するのではないか。事実、恭一はショパンの音楽をこよなく愛し生前よく弾いており、所有していたショパンのSPレコード (A. コルトーの演奏か? ) は何度も何度も繰り返し聴いた結果、再生不能になったという。42小節目「数々の 形見の品に 在りし日の面影偲び」では、ピアノの6連音符が頬に流れ落ちる涙のように奏され、51小節「永久の 勲讃えて」では、バッハ「シャコンヌ」の和音を想起させるコラール的な荘厳さが印象的だ。57小節からは再び、平和な故郷の風景を思わせるヘ長調のゆったりとした部分に戻る。しかし、愛する人は、二度とこの美しい故郷へ帰る事はない。その残酷さ・・・。 67小節目、全曲中の最低音「ファ」の単音で「雨」は 静かに終る。
まるで作曲家の遺言のように。
 (テープの演奏者は ソプラノ/三宅悦子、ピアノ/佐藤明子 = 恭一の妹) 

 なお先にも述べたが、この「雨」にはショパン「雨だれの前奏曲」との近似性が、いたる所に見られる。タイトルに「雨」を入れているのが最大の共通点だが、ここでは曲の構成まで踏み込んで見てみたい。「雨」「雨だれ」とも、a-b-aの三部形式からなっている。そして前・後奏の「a」が長調、中間部の「b」が短調という構成も同じだ。次に両曲の調性を見てみたい。「雨」は全曲を通して同じ調号 (フラット1つ)、つまり「ヘ長調 - ニ短調 - ヘ長調」と転調するのに対し「雨だれ」は変ニ長調 - 嬰ハ短調 - 変ニ長調と転調している。しかし変ニ (レのフラット) と嬰ハ (ドのシャープ) は「同じ音」なので、「a」と「b」には共通項があるというわけだ。こうしたショパンのトニックを恭一は意識していたのではないだろうか。識者の方のご見解を伺えれば、と思う。
 最大の共通点は、その曲想だ。ショパンは「雨だれ」を1836年から39年までの間に、マジョルカ島の別荘で作曲した。「雨だれ」のストーリーは次のように伝えられている。

 恋人・ジョルジュ・サンドが旅に出かけ、病弱で一人窓から庭を見ていたショパンの耳に、屋根から落ちる雨の音が同一のリズムを刻みながら入ってくる。それを聞いているうち、ショパンの胸中には不安な思いが込み上げる。そう、当時彼は肺を病んでいたのだ。
絶望的な思いに机に突っ伏すショパン。しかしやがて不安な思いは少しづつ去り、外は前と同じような雨がしとしとと降っているばかりであった。


 ショパン「雨だれ」と鬼頭恭一「雨」。最大の共通点は、ともに中間部で「死者」をドラマティックに表現していることだ。実弟・哲夫は「雨は、兄の精一杯の反戦の意志表示」と証言していたが、この中間部にこそ、その思いが強く伺えるのである。戦意高揚を思わせる歌詞に付けられた音楽には、恭一が願っていた「生と死を貫くシンフォニー」「人間臭いオペラ」の作曲で用いたかったであろう「悲劇的和音」と「ハーモニーの進行」、そして「劇性」が、見事なまでに込められている。


         

   歌曲「雨」(1944) 自筆譜 (コピー) オリジナルは 靖国神社=遊就館・蔵
 「皇紀2604.11.3 築城航空隊にて」の記載あり



「雨」  詩 / 清水 史子 (和歌山)   曲/鬼頭 恭一

 たちばなの 眞白き花に    はつ夏の 小雨けむりて
 たちばなの ゆかしきかをり  ふるさとに 匂へるあした

 わたつみの 潮の香こめて   ますらをの かたみ届きぬ
 大君の 御名となへつ     ほほゑみて 南に散りし
 ますらをの かたみとゞきぬ  

 かずかずの かたみの品に   在りし日の おもかげ偲び
 とこしへの いさをたゝへて  文机に ひとりしよれば
 
 たちばなの 紀伊の國辺に   ひねもすの 小雨けむりぬ


 (註) 恭一は作曲にあたり、最後の歌詞を「はつ夏の 小雨けむりぬ」に変更している。


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 恭一の弟・哲夫によれば、「雨」の自筆譜は婚約者が「死に物狂い」で守っていたものが戦後、恭一の母・成子に手渡され、昭和53年頃哲夫に引き継がれた。

昭和19年11月10日、築城航空隊の上官である森島鼎少尉から恭一に、2册のピアノ作品集の譜面が贈られた。
その裏表紙に、恭一への言葉が記されているので紹介したい。

「陣中に歌をよむだ古武士の如く 熾烈なる現在の戦場の上を飛ぶ海軍士官に 音をつくる心のゆとりあることは喜ばしい。
大いに勉強して 陣中作の立派なのを出して欲しい。俺も何時かは死所を得るだらう。
そしたら時には この二つの譜でも開いて思ひ出してくれ」 森島鼎

「鬼頭生徒に 大君に捧げまつった君は公の人間だが 私の生活を許されてゐる (勿論それは或る程度ではあるが)
海軍士官としての君にこの譜を送る」 森島少尉


 軍律厳しき中、このように音楽に理解のある上官がいたことは、恭一にとり何よりの励ましとなったのではなかろうか。



 特攻への志願と秋水



 昭和20年2月、講堂に集められた恭一ら予備生徒たちは、飛行隊長から重大な勧告を受ける。

「唯今から、貴様たちを中心とした特攻隊を編成する ! 」

 皆固唾を呑み、隊長の言葉を噛みしめた。硫黄島に米軍が上陸、沖縄にも戦火は刻々と迫っていた。戦局芳しからず、軍上層部は「特攻」作戦を本格的に導入しようとしていたのである。志願するか否かを熟慮するために与えられた時間は僅か30分。その後、与えられた用紙に「マル」か「バツ」、もしくは「サンカク」を記し提出せよ、というのである。
30分後、恭一は「マル」を記した用紙を提出した。その時の気持ちを、のちに佐藤正知に次のように語っている。

「志願する迄は苦しい。然し出して仕舞い、発表になってしまえば何も苦しむことは無い」

 昭和19年以後、本土への空襲は現実のものとなり、築城もグラマンによる機銃掃射に襲われるようになった。
恭一もあと数メートル、というほどの至近距離に掃射を受け、九死に一生を得た事があったという。


 ただ一人の弟子 〜 讃井智恵子


 昭和20年4月、恭一は築城である女性と出会う。それはまさに奇跡といっていい再会であった。彼女の名は讃井 (さぬい) 智恵子。(以下「智恵子」と記す) 
かつて恭一と御茶の水にあった音楽学校選科で共に学んでいた女性であった。智恵子は半年で選科を中退後九州・門司の実家へ戻り、その後築上郡松江に疎開、築城航空隊で理事生 (事務補助)をしていた。
 その様子を智恵子は、随筆「霞ヶ浦追想」のなかで次のように記している。

「4月、副官部だけが推田の山深くに疎開した。ある日、帰宅のため、推田のホームにいると、にこやかに近づいてくる見知らぬ士官がいた。相手は帽子をとった。額は、はっとするような白さであった。眉から下は黒く、くっきりと色分けされた感じである。鬼頭恭一と自己紹介し、入学式の時いっしょだったという。そういえばこんな人がいたようなという程度の記憶であったが、ともかくその奇遇に驚いた」


   讃井智恵子 (昭和18年頃)


    (写真提供/讃井優子)



 智恵子との再会により、恭一の音楽に対する情熱は一気に燃え上がる。
訓練の合間にもまだ作曲を続けていると語る恭一に、智恵子は「楽器はどうしているのか」と訊ねた。

「今は小学校のベビーオルガンをたまに借りるくらいだけど…
                       ピアノも疎開したの?」


 智恵子の家にピアノがあると聞くや否や、恭一の顔がぱあっと明るくなった。

「今度の日曜日、ぜひ伺いたい !」 


帝国海軍の軍人とはいえ、うら若き女性の家に成年男子を招き入れる事は、さぞ大変なことであっただろう。智恵子は家に帰り母に相談、何とか了解を得て、次の日曜から疎開先への恭一の訪問が始まった。朝から虎屋の羊羹などを持って訪れ、音楽を語りピアノを弾く恭一。レパートリーはバッハやベートーヴェン。 智恵子はその演奏の迫力に、ただただ圧倒されたようだ。

・・・音楽家にとって、どんなにピアノを弾きたいか、言われなくても痛切に分かる・・

 ピアノが一段落したあと、恭一は胸のポケットからチラッと一枚の写真をとり出した。

「おデコだけど、可愛いでしょう?」

それは将来を固く誓った、同い年の婚約者の写真であった。そそくさとしまおうとするのを
「一寸、見せて! 」と、サッとひきぬく智恵子。 恭一は、色白の顔を耳たぶまで真っ赤に染めながら、あわてて取り返そうとする。そしてふと漏らした言葉は・・・

「今に戦争も終る。それまで生き延びなくっちゃ」

戦争中、こういう言葉は禁句であったが、恭一は堂々と言って憚らなかった。

「生と死をつらぬくシンフォニーを書きたい」

というのが恭一の夢でもあったという。目的意識をはっきり持ち、心をこめて作曲に励む恭一の姿に、智恵子はいつしか小さな応援団となり、やがて自らの事を「(恭一の)ただ一人の弟子」と自認するようになっていった。

  

「惜別の譜」 ( 讃井智恵子/作曲 鬼頭恭一/編曲 )  (左) 自筆譜 (讃井優子/所蔵。恭一特有の異常に大きなト音記号がハッキリ見て取れる) (右)  浄書譜 ( 昭和50年9月10日付け朝日新聞記事から判読・製作された)


 この時智恵子が作曲した歌曲「惜別の譜」を、恭一は4部合唱に編曲した。残された譜面には5月17日と記されている。わずか16小節のコラール風作品だがハーモニーが美しく、東京音校の師・信時潔の世界を想起させられる佳曲である。

「惜別の譜」作曲の直後、恭一は山形県神町に転勤を命じられる。
壮行の駅頭での様子を、智恵子は「ただひとりの弟子」の中で、次のように記している。

「ひなびた小さな駅の待合室で、音楽の楽典の本を囲んで話しながらお別れすることにした。まとまった話をするでもなく、楽譜の音程の隔たりを目で追いかけながら頁をめくっていた。ただ時間だけが静かに過ぎて行くように思われた。かつての音大生が二人そこにいた。構内は、ゲートルをつけたおじさんや、モンペを着たおばさん達であふれていた。が、不思議に海軍士官はいなかった。もう帰らねばと思い、立つと、鬼頭さんも立って突然、原語でプッチーニのオペラ「蝶々婦人」の中の「ある晴れた日に」を歌い出した。透き通るようなテナーであった。遠い一点を見つめて、直立不動で歌っている。その声は神々しいまでに澄んで美しかった。まわりの人たちは、一瞬戸惑いを見せたが、海軍の士官さんが歌うておられるけんと、鷹揚に構えてくれていた。私も気恥ずかしかったが、帰るに帰られず黙って俯いて聞いていた。歌が終ったのをきっかけに、私は軽く会釈して下り線のホームの方へと足早に去った」

こうして築城での恭一と智恵子との音楽的交流は、僅か1か月で終りの時を迎えた。この時の体験を智恵子は戦後、数多く書き残しているが、いずれも青年・恭一の初々しい人間像を伺わせる、まことに貴重な証言である。


 山形から運命の地・霞ヶ浦へ


 5月22日夜、恭一はかつて世話になった東京田園調布の親戚・佐藤家に突然現れる。家には普段は寮生活をしている従弟の佐藤正知が戻っていた。恭一は佐藤に、「築城にいた間に、20曲ほど 書き上げた」と語ったという。また「これから山形で突っ込みの練習をする」と語った。神町での任務は特攻の訓練だったのだ。その時の思いを当時16歳の軍国少年だった正知は、日記に次のように記している。

「国のため天皇陛下のために殉ずることは尊いことだ。・・・
しかし惜しい、なんとしても惜しいことだ」


 恭一はかつてのピアノの師・水谷達夫の家にも立ち寄った。しかし水谷が不在だったため、次のような書き置きを残した。

「いよいよ活躍する時が来た。先生に会えなくて残念」

家人から水谷の新作「沙羅の曲」の譜面を見せられ、恭一は涙を流していたという。


 神町航空隊では九三中練(複葉二人乗り中間練習機/通称「赤トンボ」)で突入訓練を開始するとともに、6月1日付けで少尉に任官した。山形では許嫁の女性と一緒に暮すつもりで新居も捜していたという。そこへ突然、霞ヶ浦への転勤命令が下される。

 7月1日、恭一は運命の地・霞ヶ浦第312航空隊に赴任した。霞ヶ浦に到着後、初めて恭一はこれから訓練の後搭乗する予定の飛行機が、日本初のロケット戦闘機であることを知らされる。「312空」は2月に編成された日本最初のロケット戦闘機「秋水」の搭乗員養成部隊だったのだ。「秋水」は日本本土に来襲するB29対策として、ドイツのメッサーシュミット163を手本とした


最新鋭のロケット飛行機で、エンジン全開で高度10000mまで3分半で到達、高度1万2000メートルの敵機を攻撃し、僅か7分で燃料を使い切った後は、グライダーとなって基地へ帰還するという構想であった。「帰還を見込んでいるのだから、特攻機ではない」との説明ではあったが搭乗員の誰もが「上がったら終り」と思っていたという。連日の空襲・機銃掃射等により日本の軍需産業の大半は壊滅状態となり、航空機の充分な整備など到底期待出来ない状態であった。
7月7日、ようやく完成した「秋水」試験機はただちにテスト飛行を行ったが、離陸後にトラブルが発生、不時着大破しパイロットは殉職した。恭一が転勤してきたのはその直前で、霞ヶ浦ではグライダーと九三中練による滑空訓練を行っていたようである。

「秋水」復元機 (名古屋/三菱重工小牧南工場史料室) 写真提供: 秋水会


 恭一が所属していた「312航空隊=秋水隊」の中核は、全員が大学、高等専門学校の理科系および師範科卒で構成された実験部隊であり、「軍隊というよりは学校のサークルのよう」といわれるほど、アカデミックなものだった。
霞ヶ浦航空隊の宿舎である夜、消灯時間を過ぎても士官控え室からはレコードの音楽が流れていた。それは何と「敵性音楽=ジャズ」。しかし、宿舎に響いた副司令の大声は
 「士官室、消灯時間を過ぎておるぞ!」
決して「流れている曲」を責めるものではなかった。「これが、陸軍や別の部隊ならば・・・」と、隊員の誰もが思ったと言う。
航空隊の一人の証言によれば、「ジャズのレコードをかけたのは鬼頭だった」という。
厳しい訓練に明け暮れる毎日の、ほんの安らぎのひととき、恭一も間違いなくジャズを聴いていたのだ。


  恭一の死


 「秋水」は帰還時には燃料を使い果たしており着陸は100%滑空によるため、最初の訓練は九三中練でスロットルレバーをゼロにしぼり、滑空しながら飛行場の定点に着陸するというものであった。昭和20 (1945) 年7月29日、鬼頭恭一少尉は同期の加藤長利少尉(明 治大学)とともにタッチアンドゴーの訓練に向っていた。事故はこの直後の13時10分に起った。突然エンジンが停止し、機体は飛行場東側有蓋掩体壕 (空襲から飛行機を守るための壕) に激突し、壕内で炎上したのだ。二人ははただちに助け出されたものの恭一は頭蓋骨骨折、熱傷3度の即死であった。
加藤少尉はしばらくの間意識があり「鬼頭は?」と同僚を案じていたが、全身熱傷のため絶命した。
 航空隊からは直ちに恭一の名古屋の実家に宛て、殉職の電報が送られた。しかし中心街・錦にあった実家は空襲で焼けてしまい、家族は市東部の覚王山の方に仮住まいしていたため、知らせが届く事はなかった。ただ何という偶然だろう、殉職の翌30日、父・儀一と恭一の婚約者が面会のため霞ヶ浦に着いていたのである。部隊の方はてっきり連絡が届いたと思ったということだ。
突然の不慮の死を知らされた儀一と恭一の婚約者の心境は、いかばかりであった事だろうか。
 翌日若しくは翌々日、部隊葬が行われた。
「彼は学生結婚していたのかなぁ・・・奥さんだか恋人だろうか、ひどく泣いていた方がおられたのを覚えています」
『秋水会』の幹事のお一人は、葬儀の模様をしみじみと述懐する。
米軍の頻繁な艦砲射撃や機銃掃射が行われる劣悪な交通事情の中、儀一に海軍の同僚4〜5人も付き添い8月4日、恭一の遺骨は郷里・名古屋に戻った。
葬儀の2、3日後、恭一の同僚が一人霞ヶ浦から実家を訪れ、遺族に次のように語った。
「禁じられていたことですが、ヘリコプターが前方を通過しました。それで事故が起こったのです」
決して恭一機の操縦ミスにより起こった事故ではなかったという事を伝えるため、この方はわざわざ来てくれたのだ・・・・
明子たちは、そう受け取ったという。

 結局、秋水本体は完成せず実戦投入もされなかった。312部隊は敵機の機銃掃討による地上での1名の戦死者、事故による殉職7名という尊い犠牲者を出し解散した。
終戦がもしあと20日早かったら・・・恭一はその才能溢れる若き命を奪われる事はなかったのだ。運命の残酷さ、戦争の悲惨さ・理不尽さに、改めて思いを馳せてしまう。
  恭一の同期生・大中恩は語る。

「鬼頭君も村野君 (註: 同期の村野弘二)も、優秀な人だった。
彼らの才能は戦後生かされるべきだったし、我々同期が競争したら音楽界も面白かっただろう」



 志は永遠に 〜 鬼頭恭一その後


 玉音放送から10日あまりが過ぎた8月26日、恭一と築城で同期だった代田良は、復員のため郷里・長野県に向うべく常磐線で上野へ出て、新宿駅から中央線まわり名古屋行きの列車に乗った。車内は混み合っていたが、やっとの思いで列車の一角に席をしめると、前の席に英霊とかかれた白布につつまれた箱を抱いた一人の娘が座っていた。代田は遠慮がちに、「英霊」はどこで亡くなられたのか、と彼女にたずねた。
「霞ヶ浦の航空隊でございます」
「やはり、海軍の飛行機乗りであられましたか」
「学徒出身でございました」
代田はもしかして基地で一緒だった人ではと思い、何期の人かたずねるうち、何とその遺骨は旧友・鬼頭恭一のものということが分かる。
以下に代田自身の文章 (「惜別の譜」より) を記す。

私は自分が鬼頭と海軍の同期であり、福岡県の築城航空隊で一緒に訓練をうけ、生活をともにしたことを話した。あまりの知遇に驚きながら彼女に、「失礼ですが、鬼頭中尉の妹さんでしょうか」とたずねた。彼女は美しい少女のような顔を一瞬紅潮させて「鬼頭の妻でございます」とこたえた。私は自分の耳をうたぐった。そして何ともいえない感動にうたれ絶句した。自分と同じ22才にちがいない同期の鬼頭恭一に、こんな幼な妻があったのかと、いいしれぬ悲しみを覚えた。
 私は鬼頭の遺骨を抱く彼女に、久し振りに会った肉親に対するような思いでいろいろ語り合った。
やがて私たちは別れる時が来た。名古屋の生家へ還る鬼頭の遺骨や彼女と、私は辰野の駅でひっそり別れた。
彼女たちを乗せた列車が西の山峡に消えてゆくまで、私はホームに立って見送った。人影のなくなったホームにたたずみ、私は暗然たる思いで、あすからの祖国日本を思い、また彼女のこれからの人生を思った。

 恭一の遺骨は、前に記したように父・儀一が8月4日に名古屋に持ち帰っている。代田の記述どおりだとすれば、「鬼頭の妻」と答えたという許嫁の女性が抱えていた白箱に入っていたのは分骨されたものか、あるいは恭一の遺品だったのだろうか・・・・没後70年を経た今となっては、それを知る縁もない。


 昭和50年、前記の讃井智恵子が夫の勤務先である自衛隊の機関誌に書いた鬼頭恭一の追悼文が恭一の愛知一中時代の同窓生の目にふれ、恭一の遺族や代田との連絡が取れ、また恭一のその後を捜していた團伊玖磨とも繋がった。
同期生を中心に名古屋市中区で「鬼頭さんをしのぶ会」開催 (同年9月23日) が決まり、朝日新聞名古屋版に「響け 陣中遺作の曲」と題した記事が掲載された。
その席で團氏に「惜別の譜」のタクトを執ってもらおうというプランも生まれたが、恭一の母・成子は次のように述べ辞退した。

「戦争による不幸はほかにもあります。私どもだけが特別な扱いになることは避けたい」

謙虚で誠実な、古き日本人を想起させられる言葉だ。
この際讃井智恵子は名古屋・八事霊園にある鬼頭家の墓を初めて訪れたが、墓前で泣き崩れてしまいなかなか立ち上がれず、同伴した成子らを戸惑わせたという。
 9月23日、名古屋市内の「海軍」という店には大雨にもかかわらず、恭一を偲び愛知一中時代の同期生や築城時代の海軍同期生ら25人が集まった。
恭一の母・成子や弟・哲夫、その長男・正明らを囲み、讃井のエレクトーンで「惜別の譜」が演奏された。
また妹・明子と知人の三宅悦子により前日に録音された「雨」のテープも、会場に流された。

 20年ほど後、哲夫により「兄・鬼頭恭一」という講演が行われ、再び「雨」の録音が流された。
この際の記録テープが、その後の鬼頭恭一に関する調査に、重要な役割を果たす事となった。

 いま鬼頭恭一は、名古屋・八事霊園の一角、美しい赤松の木に囲まれた丘の上にある「鬼頭家の墓」で、永遠の眠りについている。
現在も「秋水」初飛行のあった7月7日には、312部隊の元隊員とその遺族たちが全国から集まり、若くして逝った亡き人々の霊を慰め、往時を偲ぶ会を行っておられるという。そして会報の「物故者」の欄には「鬼頭恭一 東京音楽 殉職S20.7.29」と、毎年欠かさず掲載されているということだ。

 
 近年、先の大平洋戦争によって若き生命を落とした画学生についての特集がマスコミ等でなされ、話題となった。
長野県上田市には「無言館」という、志半ばで戦地に散った画学生30余名、300余点の遺作・遺品を展示する施設が、平成9年5月2日に開館している。洋楽の分野でも、鬼頭と音楽学校作曲科の同期で終戦後の8月20日にフィリピンで自決した村野弘二、中国で病死した尾崎宗吉のように、戦争によって無惨に散った優れた才能があったことを、是非一人でも多くの方々に知って欲しい。もし戦争が無かったら・・・鬼頭恭一は間違いなく日本を代表し後世に名を残す作曲家の一人となっていたことだろう。私はこのような優れた才能がかつて私と同じ故郷・名古屋にあり、それが戦争により失われた事実を知り、何ともいたたまれない気持を抑える事が出来なかった。平尾貴四男がいみじくも「文明の最大の危機」と語った戦争が今後二度と起らぬよう、私たちは今鬼頭恭一の悲劇を再認識すべきではないだろうか。


  

     鬼頭恭一/鎮魂歌 自筆譜 (1942) コピー  オリジナルは 靖国神社=遊就館・蔵

 シベリウス「アンダンテ・フェスティーボ」を思わせる、長調の西欧的コラール。
故人生前の明るい笑顔と、永遠の安らかな眠りを願う恭一の思いが感じられる作品だ。


    

歌曲「雨」 浄書譜 (楽譜作成工房「ひなあられ」制作)

 

 なお冒頭で紹介した鬼頭恭一の弟・哲夫氏が講演したテープの中に入っていた歌曲「雨」の演奏実現にあたっては、妹・明子さんの友人である三宅悦子さん (武蔵野音楽大学声楽科出身) の多大なご好意とご協力があったことを、最後に記しておきたい。

 このホームページをご覧になった方で、鬼頭恭一について何らかの情報をお持ちの方は、是非お知らせください。



   鬼頭恭一が使用していた音楽ノート。   裏表紙には錨のイラストが描かれている。

     
   「アレグレット イ短調」 自筆譜    「アレグレット ハ長調」(1944) 自筆譜


 資料提供= 佐藤正知、佐藤明子、鬼頭正明、讃井優子、橋本久美子、大中恩

 
(参考、引用資料)
  朝日新聞・名古屋版記事「響け 陣中遺作の曲」 (昭和50年9月10日)
  愛知一中会機関誌「鯱光」記事「鎮海海の戦士/愛知一中出身海軍士官の大平洋戦争史」(昭和63年12月1日)
  讃井智恵子「霞ヶ浦追想」、「ただ一人の弟子」
  代田 良/「惜別の譜」 (「貴様と俺」より)
  東京藝大音楽部同声会による会員名簿 (平成14年12月)
  東京音楽学校/同声会報 No.17
  自筆譜コピー 歌曲「雨」(昭和17年)、鎮魂歌 (レクイエム)
  毎日新聞記事 (平成27年6月22日)

  その他複数の方々から、鬼頭恭一に関する貴重な情報と資料の提供をいただきました。
  ここに厚く御礼申し上げます。
  

( おことわり) このホームページに記載されている文章等を、無断でプリントアウトしたり、転載・引用しないでください。
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