日本の作曲家たち/3 須賀田礒太郎 

                            (1907.11.15 - 1952.7.5)

                          (2019.8.15更新)

    本文では須賀田礒太郎氏他の敬称を略させていただいております。悪しからずご了承ください。

 横浜出身で、25曲の管弦楽曲をはじめ数多くの魅力的な作品の数々を遺した孤高の作曲家・須賀田礒太郎を紹介しています。
(須賀田礒太郎についてのお問合せはTEL 090-8458-8521 またはメールでお願いします。


須賀田礒太郎/TOPICS
須賀田礒太郎/演奏会歴 (1999〜 2017)
須賀田礒太郎/楽譜情報
須賀田礒太郎直筆の文章
1939年6月9日、ワルシャワにおける「日本音樂の夕べ」

 (このコンサートで、須賀田の「交響的舞曲」も演奏されました)  

須賀田礒太郎/作品一覧表

 現時点で判明している須賀田礒太郎の楽譜について全ての情報をUPしました。

NAXOS/須賀田礒太郎CD解説の内容について (2008.6.10)



★須賀田礒太郎の歌曲/世界初録音 !!  YOU TUBEでお聴きいただけます。
 (ソプラノ/本田美香、ピアノ/渡部真理)
曼珠沙華  沙羅の花  秋の月  ねんねんよい子  アリア「私は粉挽娘」


 須賀田礒太郎には20曲の歌曲、5曲の合唱曲があります。
合唱曲はこれまで横浜合唱団その他によって何度か演奏されましたが、歌曲は1999年の楽譜発見後、残念ながらこれまで一度も演奏されておりません。これらの作品は全て浄書譜が完成しており、演奏が待たれていました。
 2011年8月26日、愛知県武豊町ゆめたろうプラザ響きホールにおいて、須賀田の歌曲のレコーディングが行われました。
(演奏/ソプラノ=本田美香さん、ピアノ=渡部真理さん) 
 録音当日は横浜から須賀田ご遺族の黒澤さんご夫妻も駆け付けられ、1日だけというタイトなスケジュールにも拘わらず、全17曲のレコーディングが無事終了しました。初めて演奏された作品がほとんど、という事実が信じられないほど、須賀田の歌曲はどれも素晴らしく、特に曼珠沙華(詩/北原白秋) の哀切な抒情、芥川龍之介の詩による沙羅の花の格調の高さ、瀧廉太郎「荒城の月」を想起させる秋の月は出色で、今回特に加えられた遺作のオペレッタ「宝石と粉挽娘」からのアリア「私は粉挽娘」のエキゾチックな美しさも、強く印象に残りました。また童謡ねんねんよい子の素朴な美しさに、思わず涙しそうになりました。
 これら数々の作品を、本田さん、渡部さんのお二人は、本当に高い水準で演奏してくださいました。今回の録音は今後須賀田の大切な資料として活用される予定で、最終的にはCDリリースも目指しています。



(須賀田礒太郎の自筆譜/神奈川県立図書館へ)

 須賀田礒太郎の自筆譜は1999年の発見当初は田沼町図書館 (現・佐野市田沼図書館)に保管されていましたが、その後須賀田ご遺族で横浜在住の黒澤陽子さんのご自宅に移され、公的な施設での保管・活用の道を探っていましたが、神奈川県立図書館に移されることが正式に決定し2010年夏、無事移管作業が行われました。
同図書館では今後これらの楽譜を大切に保存しつつ、今後そのコピーや浄書された演奏用譜面・録音等を通じて横浜が生んだ天才作曲家を広く紹介して行く予定ということで、その詳報はこのページでも順次ご紹介して行きたいと思っています。


(須賀田礒太郎/佐野市吉水の蔵・解体へ)

 1999年に須賀田の自筆譜が発見された佐野市吉水 (旧田沼町吉水) の蔵が先の東日本大震災により大きな損傷を受けたため、このほどついに取り壊される事になりました。
解体に先立つ5月27日、蔵の中に残されていた品々の取り出す作業が行われ、須賀田が愛聴していたSPレコード約15点その他が取り出されました。レコードの中には須賀田が終生にわたり大きな影響を受けたストラヴィンスキー自作自演による「春の祭典」のアルバムなど、興味深いものも含まれていました。詳細は後日、このページで発表したいと思います。
 その後須賀田が眠る慶安寺のお墓を須賀田ご遺族の黒澤さんご夫妻と一緒に、実に9年振りに訪れました。墓地のすぐ横に高速道路が出来るなど、周辺の環境は一変していましたが、お墓には美しい花が飾られ新しい卒塔婆が立つなど、以前訪れた時のもの寂しい雰囲気とは異なり、何か須賀田氏が私たちを暖かく迎えてくれたような気持ちになりました。蔵の隣にお住まいで須賀田家とも交流のあった方にもお話を伺え、充実したひとときを過ごす事が出来ました。


 甦る天才 作曲家 須賀田礒太郎 

                 (2012.2.27/改訂・追加)


  本文執筆にあたりましては、須賀田礒太郎氏の御遺族の黒澤陽子様、黒澤雄太様や、神奈川フィルハーモニー管弦楽団様、読売新聞社様、とちぎテレビ様をはじめとして、本当に数多くの皆様のアドバイス、ご好意をいただきました。冒頭に厚く御礼申し上げます。
 また須賀田礒太郎の楽譜再発見に多大な尽力をされた田沼町の故・慶野日出子様に、この文章を捧げたいと存じます。
 なお文中では須賀田礒太郎氏以下、すべての皆様の敬称を略させていただいておりますが、どうぞ悪しからずご了承ください。
                                             (岡崎 隆)

           〔MENU〕


   まえがき
1. 舞いあがる思い 〜 50年ぶりの肉筆楽譜発見
2. 夢の始まり 〜 作曲家・須賀田礒太郎の誕生
3. 飛翔の時 〜 はなばなしい受賞歴
4.「東北と関東」に対する早坂文雄の批評
5. 戦時中の最高傑作「葬送曲・追想」
6. ふれあい 〜 田沼町時代の須賀田礒太郎
7. あくなき追求 〜 弦楽四重奏曲第2番「無調性」
8. 旅立つ魂と残された思い 〜 須賀田礒太郎の死
9. 伝わる思い 〜 楽譜発見へ
10. 心から心へ 〜 再演をめざして
11. 舞いおりる思い 〜 「須賀田礒太郎の世界」コンサート
12. 魂の記録 〜 コンサート演奏曲目について
13. 残された絆と新たな絆 〜 田沼町演奏会と「須賀田礒太郎の世界」Vol. 2
14. 2度あることは3度ある 〜 「須賀田礒太郎の世界」Vol. 3
15. 須賀田礒太郎の作曲スタイル
16. そして未来へ

付録/楽曲分析 〜 
  須賀田礒太郎の音楽手法
(「交響的序曲」を通じて)




            まえがき


 文明開化により洋楽の洗礼を受けてから百三十有余年、日本の洋楽界は今日、飛躍的な進歩を遂げたといわれている。優れた演奏家の輩出も著しく、日本人指揮者がウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートのタクトを取ったり、世界最高峰といわれるチャイコフスキー・コンクールのグランプリに日本人が輝くといった現象も、もはやセンセーショナルに感じられないほどだ。R日本演奏連盟のホームページによれば、現在我が国には北は北海道から南は九州まで実に20以上ものプロ・オーケストラが存在するが、経済的困窮に喘ぎながらも、それぞれのオーケストラは日々活発な演奏活動を続けている。
 しかしながら、その演奏レパートリーはどうだろう? 相も変わらず19世紀の後期ロマン派作品を中心とした、一般大衆によく知られている名曲といわれる曲ばかりで、邦人作曲家による新作の上演など数えるほどもない。いわんや若い作曲家にチャンスを与え、育てて行こうという姿勢もほとんど見られない。作曲コンクールもいくつか存在はするものの、それ自体が音楽界の中心的な話題になることは、まず皆無と言ってよいだろう。

 ところが、ひとたび我が国の洋楽の歴史をひもといて見た時、私たちは過去に驚くべき時代が存在したことを発見する。それは1930〜40年代、日本が満州事変に突入し絶望的な戦争への道を歩み始めていた、あの時代だ。当時の我が国には今日から考えられないほど様々な作曲コンクールが存在し、作曲を志す多くの若者たちによって、意欲的な管弦楽作品の数々が、きら星の如く生み出され上演されていたのである。「日本の管弦楽作品表1912〜1992 」 〔楢崎洋子 編・著/R 日本交響楽振興財団〕によれば、1930年から終戦の年・1945年までの15年の間に、主だったものだけでも優に100曲を超える管弦楽曲が作曲されているのだ。
 ただ、こうした作曲コンクールによる作品募集は当時の世相を反映し、多分に国威発揚的な意味合いを帯びていた。例えば1940年 (昭和15年) には皇紀2600年ということで、国を挙げての祝賀行事が大々的に行なわれたが、音楽の分野においても諸外国の著明な作曲家たちに奉祝のための音楽の作曲が依頼されたほか、国内でも日本放送協会 (現NHK) などにより広く奉祝のための新作の募集や委嘱が行なわれたのである。2002年9月、NAXOSというレーベルからCDが発売され、大いに話題を呼んだ橋本国彦の「交響曲第1番」 はその代表的なもので、その最終楽章には、当時国民に盛んに愛唱された「紀元節」の主題が使われている。
 こうした側面が、戦後これらの管弦楽作品たちを歴史の彼方に埋没させる結果となった。このことは我が国洋楽界における大きな悲劇と言える。たしかに戦前の諸作品には政治的な要素を持つものが多いが、それ以上に今日の日本人が失ってしまった感性や色合いがあり、日本の「後期ロマン派」や「民族主義楽派」とも表すべきエッセンスが込められている作品が確かに存在していたのだ。それらが敗戦後から現在に至るまで、まるでエアポケットのように日本近代音楽史から抜け落ちてしまっているのである。
 戦後我が国の作曲界は先鋭的な手法が主流となり、数多くの作品が生み出されたが、武満や伊福部などごく一部の作品を除いて、いわゆる「ゲンダイオンガク」は次第に聴衆から遊離し、結果、作曲界自体が袋小路に迷い込んでしまっているようである。そのような現在の状況を見るにつけ、私たちは原点に戻って、不当に忘れ去られている先人たちの遺産を今、あらためて見つめ直す時期に来ているのではなかろうか。

 このような問題を改めて考えさせられる事件が5年前、栃木県のある田舎町で起こった。
「須賀田礒太郎」という作曲家の膨大な自筆楽譜が、古びた蔵の中から発見されたのである。


 1. 舞いあがる思い 〜 50年ぶりの肉筆楽譜発見


 1999年5月のある日、栃木県南部にある田沼町吉水の古ぼけた蔵の中は、静かな期待と興奮とに包まれていた。蔵の最も奥深い一番下の場所に置かれた、桐の木の上にキャンバスと黒い革を張った大きなトランク・・・それはまぎれもなく忘却の彼方にあった作曲家・須賀田礒太郎の遺品であった。

 
(須賀田礒太郎の楽譜が発見された田沼町・吉水の蔵)

 須賀田の妹・美代子の孫にあたり、横浜で居合道師範をしている黒澤雄太は、はやる胸の鼓動を抑えつつ、そっとトランクの蓋を開けた。すると、そこには数多くの楽譜たちが、まるでこの時が訪れるのを待っていたかのように、一つ一つ茶封筒にていねいに包まれ、作曲者自筆の作品目録と共に整然と納められていた。

 「幻の作曲家・須賀田礒太郎の楽譜発見!」

栃木の地方紙・下野新聞は、ただちにこのニュースを大きく伝えた。
黒澤雄太はのちに自らのホームページの中で、この時の模様を次のように記している。

「トランクを開けた瞬間、今まで闇の中で熟成されてきた須賀田礒太郎という名の作曲家の思いのたけが、五十年の時を超えて大空に舞いあがっていった」

 発見されたトランクの内容は実に多岐にわたっていた。25曲の管弦楽曲をはじめとして弦楽四重奏曲などの室内楽曲、歌曲、吹奏楽曲からピアノのための小品、童謡・シャンソン、オペレッタにいたるまで、多種多様なジャンルの楽譜の他に、須賀田の作品が上演された音楽会のポスター、新聞記事、雑誌など約50点・・・須賀田がその生涯をかけて取り組んだ仕事の、ほぼ全てが納められていたのである。
 須賀田礒太郎とは、いったいどのような作曲家だったのか。またその作品たちは何故、作曲家の死後五十年近くの時を経てから発見されねばならなかったのだろうか。
現在音楽辞典にもその名が無く、また音楽関係者の多くがその名を知らなかった須賀田礒太郎という作曲家について、次に詳しく述べて行きたいと思う。五十年の時を超えて大空に舞いあがった彼の思いが、一人でも多くの人々の心に届くことを願いながら・・・。
 

2. 夢の始まり 〜 作曲家・須賀田礒太郎の誕生


 須賀田礒太郎は1907年 (明治40年) 11月15日、横浜市中区 (現在は西区)西戸部町で、須賀田彦造・サハ夫婦の長男として生まれた。 (兄弟は弟・喜彦、妹・美代子) この年には奇しくも同じ横浜で須賀田と深い交流を持つこととなる小船幸次郎が、また平尾貴四男、松平頼則、深井史郎、大澤壽人といった、のちに我が国作曲界に重要な役割を果たすことになる作曲家たちが、相次いで誕生している。

(幼少時の須賀田礒太郎=右端/弟,妹と共に)    (関東学院中学時代の須賀田礒太郎)

 須賀田家は明治時代、祖父が生糸の取引などで莫大な財をなし、たいそう裕福であった。そんな恵まれた家庭環境の中、のびのびと育った礒太郎は幼少からいろいろなものに興味を持ち、特に美術と音楽に関しては非凡な才能を現わしていた。
 彼がその青春時代を過ごした当時の横浜は、明治維新直後から怒濤の如く押し寄せた西洋文明の玄関口として、本町通りの「ゲーテ座」を始め「横浜電気館」「オデオン座」「横浜館」など数多くの常設館が開設され、オペレッタ・演劇・映画の上映が数多く行なわれていた。オーケストラ活動の方でも明治の終りから大正にかけ、いわゆる音楽塾的な活動を行なう団体が数多く生まれ、「羽衣座」「横浜開港記念会館」などの会場で演奏会を開いている。またアマチュアではあるが、「横浜フィルハーモニー会」というオーケストラも演奏活動を行なっていた。1920年 (大正9年) には横浜館で、山田耕筰の指揮によりビゼーの歌劇「カルメン」が日本で初めて上演された。
 このように我が国では最も音楽文化の発展していたと言える環境の中で育った須賀田は、得意としていた美術、音楽の何れの道に進もうかと迷っていたが、ミッション系の関東学院中学に入学後、本格的に音楽を志すようになった。彼はまずピアノを同校教師・石野博に、声楽と理論を鎬木欽作に、ヴァイオリンを山井基清に学んだ。山井は宮内省楽部の楽士を努めていた人物で、日本古来の雅楽を西洋の五線に移す作業をライフワークにしており、彼がオーケストラ用に作・編曲した雅楽風作品を、宮内省楽部はよく演奏していたという。須賀田が山井からヴァイオリンとともに雅楽のエッセンスの数々を学び取ったであろう事は、想像に難くない。

 そんな須賀田に、突如残酷な試練が舞い降りる。当時「国民病」と呼ばれ、これといった治療法が確立されていなかった肺結核に罹患したのだ。当時肺結核は「死の病」と言われ、これといった治療法がなく、日本の死亡原因の上位を占めていた。症状が悪化したは皆人里離れたサナトリウムに隔離され、絶望的な死の恐怖にさらされる日々を過ごすのが当たり前だったのである。
 1927年 (昭和2年)、須賀田は関東学院中等部5年をやむなく中退することとなる。20才の徴兵検査にも当然のことながら合格しなかった。「お国のために身を捧げることこそが、日本男児の何よりの本分」とされたこの時代、徴兵検査に不合格になるという事は限りなく不名誉なことであった。「非国民 !」という冷たい眼差しが注がれる中、須賀田は自らの歩む道を懸命に模索した。肺結核の療養でまず求められるのは「安静」である。力仕事はおろか、普通の会社勤めさえ不可能な身体の自分に、これから一体何が出来るというのだろう・・・それは、もはや作曲しかないのではないか・・・須賀田はついに、こう思い至る。そして病状が安定して来た後は、つぎつぎと音楽界の大家たちの許を訪れ、その師事を仰ぐこととなるのである。
 こうした須賀田を経済的にバックアップしたのは、祖父と母であった。特に母・サハは病弱な礒太郎をことのほか不憫に思い、何とか一流の作曲家に育て上げようと、須賀田家の潤沢な資産を惜し気もなく彼一人に注いだのである。

 当時の日本音楽界の潮流はドイツ・ロマン派が中心であったが、マーラー、R・シュトラウス等の華麗な管弦楽法をはじめ、ドビュッシー・ラヴェル等のフランス印象派やストラヴィンスキー、それにシェーンベルクの12音技法までもが、ヨーロッパから遥か離れたこの東洋の島国でも作曲家の卵たちの好奇の的となっていた。1928年 (昭和3年)、須賀田はまず当時の日本作曲界の重鎮・山田耕筰、信時潔の両氏にドイツ・ロマン派の作曲理論の指導を仰いだ。そして翌1931年 (昭和6年)からはラヴェル・ドビュッシー等のフランス近代音楽に傾倒していた菅原明朗にも管弦楽法を学んだ。1933年 (昭和8年)、須賀田は脈々と続くドイツ・ロマン派が20世紀に向けてあるべき姿を追い求めるべく、マーラーの直弟子でのちにその第6交響曲の日本初演の指揮を取るクラウス・プリングスハイムの門を叩く。また山井基清からのレッスンで得た雅楽の研究をさらに深めるべく、「越天楽」の作曲で日本はおろか広く海外にまで評価されていた近衛秀麿にも指導を乞うた。

 近年、このようにドイツ・ロマン派とフランス印象派という全く正反対の作曲手法を相次いで吸収しようとし、またそれに留まらず雅楽やストラヴィンスキーらの近代ロシア音楽、そして無調音楽にまで手を伸ばそうとした須賀田の姿勢を単純に捉え、「器用貧乏でポリシーのない、カメレオン作曲家」などと、あまり品がいいとは言えない表現で揶揄する向きがあり、須賀田音楽研究をライフワークにしている筆者は深く胸を痛めている。1930年代初頭の我が国には、すでにヨーロッパから様々な形でありとあらゆる音楽が流れ込んでおり、裕福な須賀田の家にも当然あったであろう蓄音機やラジオ、そして実演等によって、須賀田は様々な時代・様式の音楽を耳にしていたはずである。肺結核のため自らの生きる道を「作曲」のみに絞り込まざるを得なかった20才そこそこの若者は、ひたすら未来の可能性を信じ、様々な音楽を片っ端から聴き、自らが極めるべき音楽を必死になって捜し求め続けていたに違いない。そんな彼のひたむきな生き様に少しでも思いを馳せるならば、決してこのような短絡的な表現は出来ないのでは、と筆者は思うのだが・・・。
 
 クラウス・プリングスハイム。戦前の日本の作曲家の多くが師事した。

 こうして数多くの師から貪欲なまでに様々な作曲技法を吸収した須賀田は、交響詩「横浜」(1928)、管弦楽曲「春のおとずれ」(1931)、交響詩「桜」(1933) などのフランス印象派風の習作を皮切りに、いよいよ自らの作曲家としての可能性を世に問うべく、作曲コンクールへの応募に手を染めるのである。


3. 飛翔の時 〜 はなばなしい受賞歴

 冒頭でも触れたように、1930年代のわが国では、今日では考えられないほど作曲コンクールが乱立していた。「日本音楽コンクール」 (1933〜 )、「新響作品コンクール」 (1934〜 )、来日して我が国の作曲界に多くの影響を与えた作曲家・チェレプニンを記念した「チェレプニン賞」(1936〜 )、同じく来日し新響を指揮した大指揮者・ワインガルトナーの名を冠した「ワインガルトナー賞」(1937〜 )、「NHK管弦楽懸賞」(1936〜 ) 等々コンクールがめじろ押しで、これらに入賞することこそが、当時作曲家を目指す者たちの登竜門だったのである。
 1936年 (昭和11年)、29歳の須賀田のもとに早くも嬉しい知らせが届く。宮内省式部職楽部が主催した雅楽を素材とした管弦楽曲募集コンクールで、前年の12月に作曲完成し応募していた「日本華麗絵巻」作品一 (三管編成/演奏時間6分) が見事入選したのだ。これは先に述べた山井・近衛両氏から習得した技法が花開いたと言えるだろう。
 つづいて同年、日本放送協会主催の「祝祭典用管弦楽曲懸賞」に、須賀田の「祭典前奏曲」作品二 ( 二管編成/演奏時間6分)が4位に入選し、翌年の元旦にラジオ放送された。 (初演指揮は坂西輝信)  なおこのコンクールでは賞金が出なかったようで、何と須賀田は、わざわざスコア表紙の裏に「賞金なし」と記している。彼の正直心持ちが伝わるようで何とも微笑ましい。なおこのコンクールには、後に須賀田の作品に対し辛辣な批評を書いた早坂文雄の「二つの賛歌への前奏曲」も入選している。また黎明作曲家同盟主催日本現代作品発表会にも「前奏曲と遁走曲」作品三 (三管編成/演奏時間8分) が選ばれ、演奏された。
この作品から須賀田は、それまで暖め続けていたドイツ・ロマン派様式による作曲を本格的に開始した。 
 

  「前奏曲と遁走曲」作品三初演後、聴衆の拍手に答える須賀田礒太郎と指揮者・大木正夫。
     (オーケストラは日本新交響楽団/青山・日本青年会館)


 1938年 (昭和13年)には指揮者・ローゼンシュトックらが審査を行なった新響 (現N響) 主催第2回邦人作品コンクールに「交響的舞曲」作品四 (三管編成/演奏時間6分) が、小船幸次郎「祭りの頃」、山田和男「若者のうたへる歌」、平尾貴四男「隅田川」、荻原利次「日本風舞曲」とともに入選し、2月25日、日本青年館においてローゼンシュトック指揮/新交響楽団によって初演された。
「交響的舞曲」は同年6月には遠くローマ、ワルシャワ、ヘルシンキにおいて、小船幸次郎の指揮により伊福部昭の「日本狂詩曲」等と共に演奏された。この演奏はラジオを通じて、フィンランドの大作曲家シベリウスも耳にしたということである。
 この「交響的舞曲」で須賀田は、本格的なドイツ・後期ロマン派的手法に、ある意味での道筋を見い出したと言えるのではなかろうか。
 受賞に際し、須賀田は次のように語っている。

「自分はまだまだ後期ロマン派の技法を充分習得しているとは言えず、この作品の作曲にあたっては試行錯誤を重ねたが、現時点では最善を尽したつもりである。真に日本の民族的な真情を芸術作品として昇華させるには、これからは後期ロマン派の手法を身につける事が不可欠であると自分は考える」


新響 (現N響) 主催の第2回邦人作品コンクール入賞者と指揮者ローゼンシュトック
(左から須賀田礒太郎、小船幸次郎、ローゼンシュトック、山田和男、平尾貴四男、荻原利次)
写真/神奈川フィル「須賀田礒太郎の世界」Vor.3プログラムより (提供/田沼町・山上喜子)


 
新響邦人作品コンクールコンサートのポスター 音楽新聞 (表紙写真は朝鮮出身のソブラノ・葵善葉)


 なお1938年(昭和13年)に刊行された音楽新聞3月号の「音楽会短評」に、作曲家・深井史郎 (1907〜52) が「新響邦人コンクールの感想」と題して、5人の入選作について批評文を寄せている。 以下に紹介しよう。

「最初は萩原利次君の「五音々階による日本的舞曲」だが全體に甚だ退屈な反復で困つた。同君の作では、一年前の邦人コンクールの時の作品 (著者註: 第1回邦人コンクール入選作/交響組曲「三つの世界」) の方を買ふ。一つには五音々階といふ窮屈な部屋の中に沈潜しようとしたイデーが作品を無力にしたのであるかもしれない。
 平尾貴四男君の「隅田川」は力作である。謡曲に取材するといふ試みも面白い。管絃楽の背景も最初の情景の描出は品のあるものだつた。たゞ表現の大部分の要素が朗讀的である獨唱の方に委任してゐるので、どうしても説明的な氣分からぬけ切ることが出來なかつた。從つて音樂的な感興の昂揚が少なかつた様である。
 山田和男君の「若人の歌へる歌」は色々な影響の中に才走つた神經が感じられる。主題とその取り扱ひが散漫なので印象は幾分稀薄になつた。時にはシュトラウスとドビュツシイが同居してゐたりする。多少奇を衒つた最後の終止は必然性が感じられない。
 小船幸次郎君の「祭の頃」は輸出向な所謂日本的作品で、日本の現實の何處にかういふ雰圍氣があるか測り知られないものである。技術的には相當派出ではある藝術的モラールの安易さは買ふことが出來ぬ。
 須賀田礒太郎君の「交響的舞曲」は管絃樂法も尋常であり、感覺も鋭い事は讃ふ。和聲の動きにもつと變化があつたらもつと面白かつたらうと思ふ。だが、自分の印象によれば、かつて黎明作家同盟で發表した作品 (註: 「前奏曲と遁走曲」作品三) の方が之よりいゝのではないかといふ氣がした。」

 同年、日本放送協会 (JOAK) から須賀田のもとに、初の作曲依頼が舞い込んだ。それはこの年から始まった「国民詩曲」と呼ばれるシリーズの一環で、戦時下にあった我が国の国威発揚を目指し「日本の民謡旋律を主題とすること」がその条件となっていた。当時この「国民詩曲」シリーズの作曲依頼を受ける事は一流の作曲家として認められる事を意味しており、結果として17曲の作品が生まれたのである。依頼を受けたのは須賀田以外に飯田信夫、池内友次郎、太田忠、大中寅二、清瀬保二、江文也、菅原明朗、杉山長谷夫、服部正、平尾貴四男、深井史郎、松平頼則、宮原禎二、山田和男、山本直忠、大木正夫といった錚々たる面々で、音楽学校歴も無く兵役検査にも合格しなかった須賀田にとって、作曲の師である菅原や同い年の平尾、松平、深井、また東京音楽学校出のエリート・山田ら当時一流と目される作曲家たちと並んでの依頼は、さぞや嬉しい出来事であったに違いない。こうして生み出されたのが国民詩曲「東北と関東」作品五 (三管編成/演奏時間15分) である。この作品は1939 (昭和14) 年12月7日午後8時、ラヂオより「國民詩曲の夕」として金子登指揮日本交響樂團によって放送初演された。
 放送にあたり、須賀田は下記のような楽曲解説を寄せている。

「昭和13年12月の作。民謡の内にある二ツの姿を書いた二部作。此二曲は現実生活の憂鬱な感情から開放される祭の雰圍気を描出したもので、何れも憂鬱な導入部から始まり、明朗諧謔的な感情へ展開される。第一部は、心に完全を描いて、其れが現実に對して皮相的とは言へ、神社の境内に於て素直に嬉しく踊る人々の様子を表現し、依ッて主題には「よされ節」を用ひ、東北的な感情を描出した曲。-----構成はロンド形式。第二部、此は前者に反し、物事に關して先ず現実的な直接行動に移す、元気な江戸ツ子気質な、關東的な感情を描出した曲。------構成はソナタ形式。」

 ところが、この「東北と関東」初演を聞いた作曲家・早坂文雄 (1914〜55) が「音楽倶楽部」に書いた批評が、のちのち物議を巻き起こすこととなる。


4.「東北と関東」に対する早坂文雄の批評


 早坂は批評文冒頭から「この作品によると、この作家はかなり時代がかった古い思想の持ち主である。日本現代において音楽がどのような進み方をせねばならぬかという、作曲家として思想の根本的なポイントを、まず白紙に還り反省する必要があると思う」と断ずる。以下、「具体的に民謡を使ったのかもしれないが、素直な伸びに欠ける、テュッティが多すぎる」といった指摘をし、「音楽を知らぬ一般聴衆はこの作品を聴いて驚かされ感心もするであろうが、賢明な観察を基礎として音楽を愛する良心ある人々は易々と騙されはしまい」と書いている。(句読点=筆者)
 そして最後に、「管弦楽的手法が少々古いとはいえ、管弦楽上の才能は一応持っていることは認めねばなるまい」とし、「この作家が観念的に新しくなり真に民族に目覚めたならば、期待しうる一人になるであろう」と付け加えている。
 
   早坂文雄 (1914〜55)

 須賀田の方が年長者にあたるにも拘わらず、早坂の批評の何と辛辣な事であろうか。
文末に若干のフォローがあるとはいえ、早坂の批評は須賀田の「東北と関東」について、否定的な意見が余りにも多い。
この批評の影響かどうか、後年 (1956年) 音楽の友社から発行された音楽評論家・冨樫康による「日本の作曲家」には、須賀田の作曲法について「音の取扱いは粗野で、素直な伸びを欠き、起伏がない音楽であることもいわれている」というネガティブな記述があり、その近似性に驚かされる。
 この冨樫の著作は他にも、作曲家の血統を重視してその出自をやたらと詳しく書くなど、今日の目で見れば問題点も少なくない。しかしこの著作以後、日本の作曲家についてまとめて書かれた書物は、1999年7月1日に刊行された音楽芸術別冊「日本の作曲20世紀」まで全く皆無であった。そして後者で須賀田は、ついにその作曲家としての履歴までもが完全に抹殺されてしまう。(この「日本の作曲20世紀」では作曲家・須賀田礒太郎に関する記述は皆無で、「大平洋戦争期の放送と作曲家たち」という欄の昭和18年1月の一ヶ月間のJOCK生放送記録の中に、「1月17日、坂西輝信指揮東京交響楽団により須賀田礒太郎の行進曲「皇軍」が紙恭輔の管弦楽組曲「ホロンバイル」と共に放送」という記述が見られるのみである)
 冨樫の著作が刊行された当時須賀田はすでに故人であり、また生前音楽学校等の学閥に属さず中央楽壇からも距離を置いていたため、先のようなネガティブな記述をされた可能性も否定出来ない。しかし、もしその遠因が前記の早坂の批評文にあったとしたら、これは今日是非とも検証し直さねばならないのではないか。折しも2006年7月1日、神奈川フィルハーモニー管弦楽団による「須賀田礒太郎の夕べ・Vol.3」演奏会で、「東北と関東」から「関東」がアンコールとして演奏されることとなった。そこでこの機会に「東北と関東」に対する早坂の批評に対し、筆者は実際の演奏を聴き、フルスコアを精査した立場からの検証を行ってみた。

 まず批評文冒頭の、「この作家は、かなり時代がかった古い思想の持ち主である、云々・・・」という記述であるが、これは余りにも抽象的・主情的とは言えまいか。昭和初期の洋楽黎明期から日本の作曲家たちはずっと「日本古来の伝統的な音楽を西洋音楽の技法で再構築する」という、半ば不可能とも思える遠大なテーマに、果敢に取組んで来た。その代表例として橋本國彦 (1904〜1949) の歌曲「舞」が挙げられよう。須賀田もその創作初期には、山井基清や近衛秀麿から雅楽のエッセンスを学び、菅原明朗仕込みのフランス音楽的な手法により、日本的な管弦楽曲を産み出していた。それが「日本華麗絵巻」(1935)、「祭典前奏曲」(1936) であり、この路線の頂点に位置するのが、「東北と関東」の翌年に完成した「双龍交遊之舞」(1940) なのだ。

 次に、「具体的に民謡を使ったのかもしれないが素直な伸びに欠ける、テュッティが多すぎる」という「東北と関東」に対する早坂の指摘についてだが、民謡を具体的に使う事は「国民詩曲」が求めている要素であり、また須賀田のモチーフが「素直な伸びに欠ける」とは、筆者は特に感じなかった。ただ「テュッティが多すぎる」という点について、特に第2曲の「関東」において顕著なのは事実である。須賀田はここで、例えばエネスコの「ルーマニア狂詩曲」のように、一晩中踊り明かす日本の民衆の姿を描こうとしたのかも知れない。22小節のグラーヴェ (重々しく) のあと、2/4拍子で延々と繰り広げられる狂宴の、何とパワフルなことであろう!! 多くの楽器にクロマティックな音型を執拗に繰り返させ、テュッティ (全員) のフルパワーで盛り上がるこの曲のエネルギーは、本当に凄い。しかし早坂は「音楽を知らぬ一般聴衆はこの作品を聴いて驚かされ感心もするであろうが、賢明な観察を基礎として音楽を愛する良心ある人々は易々と騙されはしまい」と、冷たく突き放すのである。
 筆者も「東北と関東」のスコア・リーディングを行っていた当初は、早坂が指摘していた点を少なからず危惧していた。しかし神奈川フィルによる「関東」の、約60年ぶりの再演を聴いて驚いた。
 
 何と見事なオーケストレーションであろう !!

一見すべてのパートが、ただやみくもに奏しているかのように見えるスコアには、ちゃんと異なる声部が対立し浮かびあがるように周到に考えられ、アンサンブル能力の高いオーケストラで演奏されればされるほど、細部の曲想の変化が効果的に響くように書き込まれている事が、手に取るように分ったのである。音楽評論家・片山杜秀は「関東」がアンコールで演奏された直後、「素晴らしい!!  日本のモチーフをこれだけ鳴りよく効果的に描いた作品は、ちょっと他に思いつきません。間違い無く「国民詩曲」シリーズの中でも出色の作品だと思います」と、興奮覚めやらぬといった表情で語っていた。小生も全く同感である。
 考えるに、「東北と関東」が初演された頃の我が国のオーケストラは、その技術的なレベルにおいて今日とは比較にならないほど劣っていたため、この曲もただただ混濁した騒々しい音楽と取られてしまった可能性がある。また初演の指揮を執った金子登も、まだ指揮者としてのキャリアをスタートしたばかりで、その統率力は決して十分とは言えなかった。そのような事情から各パート間のバランスや音色の違いの妙といった作曲者がスコアに込めた工夫も、初演時にはほとんど活かす事が出来ず、結果として早坂のような誤解とも言える批評を産んでしまったのではないだろうか。
 それを裏付けるのが、「東北と関東」のフルスコアの余白に書かれた須賀田自身による書込みである。

 昭和14年12月7日午後8時より、日本放送協会にて國民詩曲の夕として放送初演。
指揮はそれぞれ作曲者がなす立て前であったが、大管弦楽の指揮未経験なるため、友人の金子登君に頼んだ。-- 金子君は指揮法の勉強中にて、日本交響樂團を指揮したき熱望にて、彼貳度目の棒を持った。従って残念乍ら不結果であった。
 昭和17年6月12日午後2時、日本放送協会より、海外向放送を行ふ。-- 指揮は協会より金子君を指定し、再度なるため充分説明をなし、依って前回よりやゝ良好であツた。旋律が浮いて来て、立体感が出て来た。

 ところで、この作品から筆者がまず感じるのは、作曲する際の須賀田の目が、常に一般大衆に向いていた、という事だ。
5年後に作曲された「交響曲第1番」の譜面にも「此の音楽を聴くことにより、皆さんが本當に愉快に樂しくなって戴ければ結構です」という添え書きが見られるが、須賀田は作曲にあたり、常に「少しでも多くの人々に、音楽の楽しさ・素晴らしさを感じてほしい」という強い願いを持っていた。その思いは後年、栃木県・田沼町に居を移した後、より顕著になるのだが、須賀田の生涯を通じての作曲ポリシーなのであった。「賢明な観察を基礎として音楽を愛する良心ある人々」を自認する、偽善的な一部のエリートのためだけに、決して須賀田は作曲をした訳ではないのだ。早坂の言う「音楽を知らぬ一般聴衆」にこそ、須賀田は音楽の真の魅力を伝えたかったに違いない。
 なお須賀田は後年、「木曽節」「安木節」「かっぽれ」「八木節」という4つの日本のテーマをもとに「管弦楽のための4つのパラフレーズ」作品27 (1951) を書くのだが、そこでは民俗的なエネルギーと洗練された管弦楽法とが見事に調和している。筆者にはこの「管弦楽のための4つのパラフレーズ」が、「東北と関東」に対する様々な批判に対しての、須賀田の新たな回答のように思えてならない。

 早坂の辛口な批評の背景には、音楽学校の卒業歴を持たない早坂の、同じ経歴で7つ年上の須賀田に対する強いライバル意識があったことを、今日の私たちは意に留めておくべきだろう。また「国民詩曲」の依頼を須賀田が先んじて受けたことに対しても、おそらく早坂の胸には忸怩たる思いがあったに違いない。当時、クラシックの作曲などという作業は、よほど経済的に恵まれた者でなければ、取り組むのはほぼ不可能、というのが現実であった。安部幸明 (1911〜 )は、兵役に服した時に「音楽を勉強できる自分自身が、ブルジョアジーの分野に属するのだと、痛切に感じた」と語っている。
苦学し、時には三日間も水だけで暮しながら作曲を続けた事もあったと言う早坂の目に、兵役にも就かず母親から経済的援助が保証されていた須賀田の境遇がどのように写ったかという背景も、忘れてはならないのではないか。

 早坂文雄は1941年、彼の代表作となる雅楽を モチーフにした「左方の舞と右方の舞」を書き上げるのだが、この作品について音楽評論家・片山杜秀は「前年に初演された須賀田の「双龍交遊之舞」の影響を受けているように思われる」と、ナクソスの早坂作品CDの解説に記している。 「双龍交遊之舞」は紀元2600年奉祝作品としてJOAKより委嘱を受け、1940年 (昭和15年)11月10日、放送特輯番組第一夜において橋本國彦指揮日本放送交響楽団により放送初演された。(当日は放送に先立ち、皇居前で天皇陛下ご臨席の下、近衛文磨首相の音頭による万歳三唱の式典が行われたと言う。) この「双龍交遊之舞」の見事さは筆舌に尽し難い。近衛の有名な「越天楽」が、雅楽の原曲をほぼ忠実にオーケストレーションしただけ、と言える (それだけにオリジナルが持つ良さが忠実に伝わって来るという利点もあるのだが) のに対し、この「双龍交遊之舞」は、雅楽の「納曽利」に基づいてはいるものの、全曲を通じてフランス印象派の自由奔放な手法が駆使され、時にはバルトークなどにも通ずるサウンドも出てくる (小松一彦氏・談) など、その独創的なオーケストレーションは比類が無く、間違いなく須賀田の管弦楽曲を代表する傑作である、と言える。 須賀田の作品を「かなり時代がかった古い思想の持ち主」と断罪しながらも、早坂はいつしか須賀田の才能に触発され、その凌駕をも志していたのである。
 今回筆者は須賀田の「双龍交遊之舞」と早坂の「左方の舞と右方の舞」両曲を、あらためて聴き比べてみたが、確かに五度和音など雅楽的特色だけを取ってみても片山の評論を待つまでもなく、その近似性は避けられるものではなかろう。
しかし、構成力や場面転換の面白さ・躍動感・機知に富んだオーケストレーション等々、筆者には須賀田の「双龍交遊之舞」の方が、はるかに聴き応えがあった。ただ「左方の舞と右方の舞」には、須賀田には無い、より内省的な情緒が感じられ、恐らく早坂としてはこのような要素が須賀田作品に不足していると感じたのかも知れない。


5. 戦時中の最高傑作「葬送曲・追想」


 先に触れたように、「交響的舞曲」を境に、須賀田は徐々にこれまで創作の根幹として来たフランス印象派的作曲法から、徐々にドイツ・オーストリア伝統の後期ロマン派の緊密な作曲法へと、その作曲手法を移して行った。当時の緊迫した世相も、そのような作品を求めており、コンクールでも高く評価されていたという事情もあったのだろう。1939年 (昭和14年) には「交響的序曲」作品六が、NHK主催・皇紀2600年奉祝管弦楽曲懸賞・序曲の部に、早坂文雄の「序曲ニ調」と共に入賞、翌40年2月11日の紀元節に山田耕筰指揮・日本放送交響楽団 (新交響楽団の放送時の別称) により放送初演された(原題は「興亜序曲」)。 この「交響的序曲」は、須賀田の後期ロマン派的手法の頂点をなす傑作と言える。ヒンデミットの影響が随所に伺え、交響曲「画家マチス」第1楽章とそっくりなオーケストレーションも散見される。しかし単なる模倣でなく、須賀田はヒンデミット的和声に日本音階を基調とした旋律を巧みに絡ませ、ヒンデミットより一歩進んだ展開部を構築している。後半のアレグロ・エネルジーコの部分では対位法の錬熟も顕著で、フィナーレのコラールの転調も見事。その和音は、まるでシベリウスの第2交響曲のフィナーレのように感動的に響く。

 同年、紀元2600年記念日本放送協会コンクールに軍隊行進曲「皇軍」、満州國新京音楽院コンクールに歓喜 (東和行進曲) 、JOAK作曲コンクールに進撃 (航空行進曲) の、3曲の管弦楽のための行進曲が立て続けに入選した。
行進曲「皇軍」須賀田には珍しく作曲当時の録音 (演奏/東京交響楽団) が奇跡的に残されており、この録音を聴くと、須賀田はタイケ以来のドイツ行進曲の様式を完全に把握し、その管弦楽法はまさに職人芸の極みと言えるものであったことが手に取るように伺える。なおの3曲の行進曲はその後、靖国神社春秋臨時大祭に使用のためにJOAKより委嘱された「英霊に捧ぐ」と共に「作品7」として須賀田自身の手によってまとめられている。
 戦時中の須賀田の活躍は実に目覚ましいものであった。現在筆者はその詳細を鋭意調査中だが、「台湾舞踏曲 (八月十五夜)」、序曲「万民翼賛」、「大平洋円舞曲」、フーガによる舞踊曲など、戦争に関連したタイトルを持つものを中心として、10曲以上もの作品が書かれ、その多くは連日のようにラジオから放送されたという。1942年 (昭和17年)には日本ビクターの第1回管弦楽曲懸賞に、彼の初の交響曲となる「交響曲第1番ハ長調 (フィルハーモニー交響曲)」作品十四 (三管編成/演奏時間27分) が佳作入選した。(初演指揮は阪本良隆)
 大平洋戦争真只中のこの時期が、須賀田の創作力のピークであったことは、作品の充実度や勢いからも疑う余地が無い。ここに、時代に翻弄された他の多くの作曲家同様、須賀田礒太郎の悲劇があると言えるのではなかろうか。
 それを象徴する作品が、筆者が「須賀田の最高傑作」と確信する「葬送曲・追想」である。 

 1941年 (昭和16年) 、須賀田はJOAKから戦死者葬送のための音楽の作曲を委嘱され、大平洋戦争開戦の直前の昭和16年11月1日に、この「葬送曲・追想」は生み出された。この「葬送曲・追想」には、それまでの須賀田の音楽には見られなかった深い内的心情の吐露が見られる。いくら戦死者追悼のための音楽とは云っても、その痛切さは並みではない。一体須賀田に何があったのだろう・・・筆者は強い関心を抱いていたが、最近須賀田の姪・黒澤陽子さんから興味深いお話を聞くことが出来た。それによると須賀田には20代の頃、密かに思いを寄せていた人がおり、その人が須賀田と同じ肺結核のため、若くしてこの世を去ったというのである。JOAKから戦死者葬送のための音楽を委嘱された時、ひょっとしたら須賀田の胸に、かつて愛する人を失った時の強い悲しみの心情が、鮮やかに甦ったのではないだろうか。
 曲は、引きずるような葬儀の足取りを思わせる、ゆったりとした旋律で始まる。随所に使用される沈鬱な不協和音は、死者を見送る人々の千々に乱れる心の内を窺わせるかのように響き、やがてコールアングレが哀感に満ちた調べを静かに奏でる。
 中間部では一転して曲は長調となり、ヴァイオリンのソロが故人の美しい一生を愛おしく振り返り、束の間の盛り上がりを見せる。ワーグナーの「タンホイザー」序曲を思わせるヴァイナリン群のオブリガートをはじめ、三管編成に多数の打楽器、そしてハーブ2台まで駆使した須賀田のオーケストレーションは多彩を極め、まことに素晴らしい。 が、その華麗な調べは低弦の呻くような響きとティンパニーの荒々しいクレッシェンドによって突如中断されてしまう。この部分の不気味さ・悲しさは痛切の極みだ。
そしてまた冒頭と同じ葬列のテーマが回想され、「アーメン」を連想させるコラールで静かに曲を閉じる。
 「葬送曲・追想」は痛切な内的心情の吐露により、強い説得力を持つ完成度の高い作品となった。
このように優れた内容を持つ「葬送曲・追想」であったが、その1年半後、この作品は宿命的とも言える運命を迎える事となる。日本海軍の総司令官・山本五十六大将が南方戦線陣頭指揮の最中、機中で戦死したのだ。
昭和18年6月7日、大将の国葬にあたり、この「葬送曲・追想」が演奏されることとなった。当時の日本人全てがその死を悼んだ山本五十六大将 (死後元帥に昇格) の国葬に自らの作品が演奏されるということは、須賀田にとり「恐れ多いほどの」名誉であったに違いない。しかしこの歴史的事実により、戦後この作品は「軍国主義の機会音楽」という色眼鏡で見られ、敬遠されるようになってしまう。須賀田にとり、何と皮肉な結果であろう。事実、この国葬以来「葬送曲・追想」はその後一度も再演の機会を得ることなく今日に至っている。
 なおこの作品は当初、山本元帥の葬儀の列が行進する際に演奏され、その実況録音も残されているのではと推測されて来たが、筆者がこのほど当時の録音を聴いた結果、葬列の音楽は全く別の吹奏楽作品であり、残念ながら「葬送曲・追想」の録音は残されていなかった。ハープ二台を含む大管弦楽という編成から考えても、恐らく追悼記念演奏会のような催しで演奏されたか、ラジオの追悼番組で放送されたのでは、と推測される。

 こうして数々の作品が評価され演奏された結果、須賀田は1937年より帝国高等音楽学校作曲科嘱託として1944年 (昭和19年) 同校が廃校になるまで勤務し、また横浜合唱団の指揮者としても活躍した。 しかし彼の戦時作品がラジオから相次いで流されるのとは裏腹に、戦局は次第に悪化の一途を辿り、彼の生地横浜でも空襲の危機が現実のものとして迫りつつあった。「国民皆兵」の掛け声のもと徴兵対象者の枠が拡げられ、再度の徴兵検査を受け丙種合格となった須賀田ではあったが、実際に赤紙 (召集令状) が来る事はなかった。1944年 (昭和19年) 、須賀田はついに父親の故郷である栃木県田沼町への疎開を余儀無くされ、その地で終戦を迎えることとなるのである。


6. ふれあい 〜 田沼町時代の須賀田礒太郎


 戦争が終わった後も、病弱な須賀田は田沼町を動くことはなかった。疎開当初は会社事務の仕事などにも携わったが、持病の肺結核の発作のため実家で療養生活に専念する事を余儀無くされた。
 戦前、あれほど輝かしい入賞歴を誇った彼の管弦楽曲の数々も、戦後は百八十度の価値観の変化により、再演の機会はおろかその存在すらも無視された。田沼町に留まった須賀田の名は、彼が音楽学校出身などの学閥とは無縁であり、また楽界での付き合いの薄さ等もあって、次第に中央楽壇から忘れられていく。母からの経済的な援助は保証されていたため、食べる事には困らなかった。しかし須賀田には、もはや何の地位も名声も残されてはいなかった。
 戦後の須賀田は、これまで主に取り組んで来た管弦楽曲のなどの大作を発表する場は、ほぼ完全に無くなった。
戦前からの繋がりで、NHKと名を変えた旧JOAKから辛うじて作曲依頼が舞い込んではくるものの、そのほとんどは「通俗的な短い楽曲、あるいは民謡の編曲を・・・」というような依頼ばかりであった。しかしそんな逆境の中にあっても、須賀田は決して自らの創作活動を滞らせることはなかった。

「戦争で疲弊した人々が今、何よりも明るい明日を感じ取れるような音楽を求めているのであれば、いま自分が果たすべき役割は、そのような分野で努力する事しかないのだ」

 と、懸命に取組んだのである。こうしてこのような通俗的小品の分野で、須賀田は「行進曲集・第二輯」Op.17、「通俗楽曲集 第1輯」Op.21, 「通俗楽曲集 第2輯」Op.24など、数多くの作品を産み出した。中でも1950年 (昭和25年)、NHKラジオ歌謡に応募するために作曲、入選した「ご飯の歌」(深尾須磨子/作詩)は、その後も地元・田沼町の人々にずっと歌い継がれ、その後須賀田音楽の復権に重要な役割を果たすことになるのである。


 田沼町の父親の実家では、その二階が須賀田の仕事部屋であった。
須賀田の作曲に打ち込む姿勢は、それは厳しいものであった。彼が仕事部屋でピアノを弾いている時は、家族の誰もが恐がって近付けなかった、という。楽想に行き詰まった時など、集中するために深夜でも頭から冷水をかぶり、自らを奮い立たせ作曲を続けたのである。
 現在は横浜に住む、須賀田の姪 (妹・美代子の子)の黒澤陽子は語る。

「伯父様が良いとおっしゃらなければ、私たちは決して2階の仕事部屋には入ってはならないことになっていました。でも作曲に疲れた時など、私たち子供を部屋に招き入れ、一緒に遊んでくれたことを覚えています。伯父は手先がとても器用で、機関車の模型などを作る事も得意でした。
ある日、伯父の自転車に乗せてもらって、イナゴ採りに行ったことがありました。
 「これが、イナゴだよ」
伯父に教えられ、私は面白くて夢中でイナゴを取りました。そして、二人で大収穫をあげる事が出来たんです。
 「陽ちゃん、うまいね・・・」
伯父は優しく誉めてくれました。その時の青い空、広い野原の緑、伯父に乗せてもらった自転車の黒いフレーム、そして自転車の後ろでしっかり伯父につかまったワイシャツの白とが、まるで映画のシーンのように、今も私の中に鮮明に残っています・・・」

 須賀田は決して仕事部屋に閉じこもるばかりでなく、地域の人々と音楽を通じ積極的に関わった。1947年 (昭和22年)、田沼町南部青年団の求めに応じてその団歌を作曲したのを皮切りに須賀田は、その後も田沼小・中学校の校歌や飛駒音頭などの民謡を、人々に求められるままに次々と作曲した。当時のこうした楽曲の譜面のかたすみに、下記のような須賀田の記述が見られる。

「一流歌人、詩人の作品に作曲することは結構であるが、斯うした素人の作詩も又結構である。此等の中から自分のアイデアーが生まれ、楽曲が生れる」

 このさり気ない添え書きに、自分の音楽を聴いてくれる一般大衆のことを常に忘れなかった須賀田の、作曲に対する基本姿勢が伺えないだろうか。

 須賀田は地域の人々に音楽の指導も献身的に行なった。
体調の優れない時でも決して怒らず、田沼の人々をそれこそ手取り足取り指導したのである。猛暑の中、南部青年団の指導をするため、練習場への長い長い道のりを顔にいっぱい汗をかきながら自転車を漕ぐ須賀田に、人々は利害や凡俗を超越した、真の芸術家の姿を見たのだ。現在でも田沼町を訪れると、そんな須賀田の優しく誠実な性格を懐かしく語る人々は数多い。とちぎテレビのインタビューに対する、田沼町の須賀田と交流のあった田沼町女声コーラスの皆さんのお話を、以下に記したい。

「偉ぶったところが一つもなくて・・・親戚の話とか気さくにしてくれて、いつもアルバムなんか見せてくれたので、私なんか大きい写真、どんどんもらっちゃったんですよ」
「りっぱな先生だってことは意識してましたけど、微笑みの絶えない方でした」
「いつも眼鏡の奥から優しい瞳で、本当に作曲の大家である先生とはとは思えないような、初心者にも優しい暖かい指導をして下さった、思い出深い先生です」
 かつて須賀田からピアノを習い、のちに田沼小学校で音楽教師を勤めた尾花陽子は、須賀田からレッスンを受けていた時、頼まれて出来たての校歌を小学校に急いで届けた日のことを、今も懐かしく思い出すと言う。
また須賀田がその団歌を作曲し、合唱の指導もした田沼町南部青年団の元メンバーの声もご紹介する。
「何も出来ない我々をちゃんと指導して下さった、とにかく面倒見のいい方でした」
「常にニコニコして、とにかくいい人でした」
「挨拶なんかすると、ニコニコッて面長の顔で優しい笑顔を見せてくれました。それはものすごーい印象でしたね・・・いろいろな面で文化っていうか、そういうものの芽を作っていただいた気がします」

 彼の仕事部屋からは、訪ねて来た町の人々と語り合う須賀田の明るい笑い声が、よく聞かれたということだ。


7. あくなき追求 〜 "第二絃樂四重奏"「無調性」


 1946年 (昭和21年)、須賀田はNHKラジオの放送用のための弦楽四重奏曲の作曲を依頼された。
通俗的小品以外を発表出来る好機に、須賀田は戦前から密かに研究を続けて来た前衛的手法を使っての初の作品を提出した。それが彼としては2番目となる、"第二絃樂四重奏"「無調風」である。
 須賀田はラジオ放送用パンフレットの中に、この作品を産み出すにあたっての熱き想いを滔々と述べている。
それを以下に記したい。

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"第二絃樂四重奏"

(1) 曲の特色 - 無調性音樂と我が国

"第二絃樂四重奏"は、無調性即ちアトナール (Atonal) 音樂で書いたものであります。此の無調性音楽は、リヒアルト=シトラウスにより創案され、アーノルド=シエンベルグがこれを体系づけ、始めて無調性音楽というものを確立したわけであります。現代音樂に独自の道を開いて有名になったイゴール=ストラビンスキー、ベラバルトーク、ポール=ヒンデミツト等々は、シエンベルクの熱心な研究から前進して大成したものであります。併しながら我が国に於ては此の無調性音楽が殆ど顧みられていない様子であります。それ故私は其の試作の発表さえも聴いたことがありません。却ってかかる音樂は外道だとさえ言う者もあり、或は又、日本は日本独自の音樂を作るべきだと主張する者もあり、此の歴史的大発展の過程には目もくれない現状であります。こうした態度は、島国的な偏見というか、或は一途に他排的に進む傾向というか、兎に角よその国のものを一応は研究し消化するということが欠けているため、日本の作曲技術は欧米のそれよりも三十年遅れているという次第-----是では何時になっても世界の水準に立つ作曲は望めぬ訳であります。元来如何に内燃的な藝術的意欲があったとしても、現在のように表現手段としての技術の研究を持たぬのでは如何に大言壮語しても何の役に立つわけではなく、又後世に残る作品など望み得べくもないのであります。

(2) 無調性音樂の位置
 終戦後のニュースによれば、米国の若い作曲家達は、亡命し来った老齢のシエンベルクを囲み、その無調性音樂の指導を受けているとの話。又、英国に於いては若い作曲家連も直接彼の指導が得られぬ為、彼の作品に就いて是を分解し、試作研究をしているが、中には婦人の作曲家が無調性を書いて発表好評を得たという話もあります。こんなふうで、今若し我が国に於いて此の理論を研究するとすれば、決して無意義ではないのですが、之を身につけようとするならば、相当に進んだ作曲者としての知識と多大な努力を要すべきことは申すまでもありません。
 日本に於いて手堅い作曲法と目されているクラシツクの理論は、ベートオベン以後発展し、ワグナーにより現代に至るまでの廣大な発達を遂げたものであります。更に巨大な研究に続く山脈が、近代より現代に跨がる後期ロマンチックの存在であつて、無調性音樂は恰も其の峠に位置するものと言えるのであります。日本では自ら新古典派と称する作曲家も沢山居るようでありますが、実は此の巨大な山脈を乗り越えて来たものでなく、クラシックの習得に現代の感覚をプラスした所のものでありまして、史的発展の目から見れば欧米の新古典派作曲とは凡そ縁遠いものであります。所謂真の現代の新古典というものは、多調性や無調性が物足りなくなって生まれたものであって、我が国のそれの如く、昔の古典そのものの技術ではないのであります。

(3) 無調性音樂と私
 私も此の研究が非常に困難であることを知り、まだ独ソ戦が始まらぬ以前に外国の出版物から資料を集めてひたすら研鑽を重ね、無調性音樂により以前から無調性音樂までを調べて参りました。そして終戦後、始めて無調性で今度の絃樂四重奏を試作した次第であります。唯作曲上の困難と、演奏上の難しさがあるため、演奏時間六分という、極く短いものに作り上げました。思えば此の六分の作品を生むに至るまでに十数年を要したのでありまして、私にとって如何に困難な研究であつたかが判って頂けると思います。勿論作曲も絵画などと同様、理論だけを幾ら勉強しても実際に書く修練がなければ良い作品は得られぬ道理であります。そのため此の研究もかように長い年月を要し、漸く試作を発表するに到った次第なのであります。又この六分の試作は、私が意図する次の無調性管弦樂曲の下準備となるものでありまして、此の度の演奏を試聴することは、私にとって実に重大な意義を持つものなのであります。

(4) 現今作曲の傾向
 是までの藝術----たとえばベートオベンの交響曲とか日本の歌舞伎の如きは、それぞれ其の道の相応した知識がないと聴いても観てもさ程有難い存在とは思われないのでありますが、現代の藝術は其の理論とか構成とかが如何に複雑でむつかしくとも、鑑賞は極めて容易に為されるという傾向に、又はそれを原則として創作されねばならぬので、音樂でも其の作曲者は益々困難な立場に置かれることになりました。従って鑑賞する立場に於いては、音樂的素養という点を除外して聴かれても結構なのであり、そうした態度の聴手に対して此の曲が如何に味わって頂けたかということも、私は切に知りたいと思っております。

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 "第二絃樂四重奏"は当初1946年 (昭和21年) 8月4日 (土) 午後5時45分からNHK東京第一放送 の"現代日本の音樂"という番組で、1941年 (昭和16年) の"第一絃樂四重奏"の第2楽章と共に放送される予定であった。ところがその収録の際、この"第二絃樂四重奏"は演奏者から演奏を拒絶されてしまう。止むなくNHKはプログラムを"第一絃樂四重奏"全曲に切り替え、"第二絃樂四重奏"の初演はその後55年の時を待たねばならなかった。(初演は2001年12月27日/「日本の戦後音楽史再考」レクチャーコンサート/虎ノ門JTアートホール/演奏=ラ・ミューズ弦楽四重奏団)
 おそらく当時の保守的な演奏家には、このような無調作品は「音楽ではない」と写ったのだろう。

 一体なぜこの時期に、須賀田は無調技法を試そうとしたのだろうか?  菅原明朗に師事してフランス的な作曲技法から始まり、ドイツ・ロマン派の厳格な様式や色彩感溢れる大衆的な作品まで、ありとあらゆる音楽に興味を示してきた須賀田であったが、敗戦後あらゆる分野で全ての価値観が一転し、これまで「真に日本音楽の伝統を活用するために、着実に身につける必要がある」と信じて来た後期ロマン派的手法による作品は今や「時代遅れ」で、まかり間違えば「戦時体制の遺物」と取られかねない危機感を、敏感に感じ取っていたのかも知れない。戦後間もない頃から乞われるままに、一般大衆が手っ取り早く受け入れてくれそうな明るい通俗的な小品の数々 (「行進曲集」作品十七、「通俗歌曲集」作品十八など)を書いていた須賀田ではあったが、その作曲技法に於ける最大の関心の的は、戦前からずっと関心を持ち彼なりに研究を続けて来た、シェーンベルク的無調音楽へと、いつか移っていたのである。
なお前記の「行進曲集」作品十七、「通俗歌曲集」作品十八の自筆楽譜の余白には、彼の当時の世相に対する赤裸裸な想いが、隅々までビッシリと書き込まれており、たいそう興味深い。

 黒澤雄太は2001年の"第二絃樂四重奏"の初演を聴き、次のように記している。
 
 「作曲後五十五年を経て、初めて演奏された「弦楽四重奏第二番無調性」は、現代を生きる僕の耳には無調=先端では当然なく実に古典的な和洋折衷の音楽だった。
 その響きは、第一楽章に代表される、「ショスタコビッチ」の弦楽四重奏のような、重く、冷たく沈んだ音と、第三楽章に代表される、日本の祭ばやしのような、音がはね、リズムがはずむ、いかにも日本的な音との融合であった。
 現代では失われてしまった日本の音、例えば各地の祭りばやしの旋律から喚起されるその情感は、かろうじてまだ僕らの記憶のどこかにひそんでいる。それは遠い少年の日の記憶かもしれないし、自分が直接聴いたわけではない、いわば遺伝子の記憶なのかもしれない。しかし大事なのは、その記憶が何かのきっかけによっていまだに喚起されるものであるということだ。時をへだてて、なほ喚起される記憶こそが、僕らの根幹をなす、言ってみれば「アイデンティティ」というものの正体なのであろう。
 あの時代に西洋から来たクラシックというわくの中に、日本の情感に根差したアイデンティティを埋めこんだ須賀田磯太郎。そこいらへんに、僕がこれから進むべき道の指針がかくされている気がした」

 "第二絃樂四重奏"は演奏拒否にあったが、須賀田はその後も無調を基とした斬新な管弦楽曲を、たとえ演奏の当てが無くとも書き続けた。それが1949年 (昭和24年)の「ピカソの絵」作品二十三であり、翌年のバレエ音楽「生命の律動」作品二十五 (共に三管編成/演奏時間15分) である。
 このように須賀田がこれから独自の音楽世界を産み出そうとしていた、まさにその時に、非情にも彼の命の炎が次第に細くゆらいで行った事に、私は深い悲しみを禁じ得ない。


8. 旅立つ魂と残された思い 〜 須賀田礒太郎の死


 先の弦楽四重奏曲第2番の他に、戦後作曲された須賀田礒太郎の主な管弦楽作品は次の通りである。
 
 管弦楽曲「ピカソの絵」作品23 (1949)
 管弦楽曲「日本舞踊組曲」作品22(1950)
 バレエ音楽「生命の律動」作品25 (1950)
 小管弦楽「日本舞踊音楽集」(第1輯)作品27 (1951)
 オペレッタ「宝石と粉挽娘」作品28 (1951)
 4つのパラフレーズ Op.27 (1951)
 セレナーデ (1951)

 ただこれらの作品は実際に上演されたという記録もなく、どのような内容かということは、残された楽譜からしか伺うことが出来ない。
 NHKから「ご飯の歌」入選の報に接した須賀田は、「この曲が選ばれるとは甚だ意外なり」と、その日記に記している。おそらく彼はその心の中で「自分の作曲の最終目標は、オーケストラ作品なのだ」という思いを、常に持っていたのではないか。奇しくも「ご飯の歌」が入選したNHKラジオ歌謡発表の記事が掲載された同じ紙面に、その何倍もの大きさで「NHK25周年記念管弦楽懸賞入選者発表」の記事が踊っていた。選ばれたのは芥川也寸志 ( 交響管弦楽のための音楽)、團伊玖麿 ( 交響曲イ調 )という、須賀田よりずっと若い世代の作曲家で、その後の日本の作曲界に重要な地位を占めて行くこととなる。戦前、数多くのコンクールに入賞した経歴を持つ須賀田は、この新聞記事をさぞや複雑な想いで眺めたに違いない。なお「ご飯の歌」の初放送は1950年 (昭和25年)3月21日で、小野淑子がその歌唱をつとめた。
 たとえ上演の可能性が無くとも、その感興のおもむくまま常に新たな可能性を求めて作曲の筆を休めることがなかった須賀田礒太郎。「ピカソの絵」「生命の律動」、そして「日本舞踊音楽集」の譜面からは、病弱な自身の健康を跳ね返し、たとえ天命が尽きても自らの生きた証しとしての作品を残したい、という彼の切なる願いが伺えるようだ。
 
 1952年 ( 昭和27年) に入り須賀田の持病である肺結核の症状はさらに悪化した。
「生命の律動」作曲あたりから、時には意識が朦朧とする事もあったという。しかしその浄書譜は実に美しく、須賀田の病の影を微塵も感じさせない。だが自筆譜をよく見ると・・・同旋律と伴奏の小節の位置がずれていたり、練習番号の順番を間違えるなど、それまでの須賀田の譜面にはあり得なかったミスも散見される。私たちはそれらから、ただならぬ須賀田の健康状態を思い知らされるのだ。
 そのような折、アメリカで肺結核の特効薬として「ストレプトマイシン」という薬が開発された。昭和24年3月、参議院議員・小林勝馬が「ストレプトマイシンの効果についての質問に対する答弁書」を国会に提出したというニュースは、当然須賀田の耳にも入っていたことだろう。当時「ストレプトマイシン」は日本には輸入されていなかったが、須賀田の周囲の人々は、このとてつもなく高額な特効薬を何とかして取り寄せ、治療に当てようとした。しかし須賀田は頑として「ストレプトマイシン」の使用を拒んだという。前記の小林の答弁書にも記載されているが、「ストレプトマイシン」は平衡失調、めまい、悪心、頭痛等数多くの副作用が報告されており、何より聴覚に悪影響を及ぼす危険性があったのである。作曲だけが自らの生きる証であった須賀田礒太郎にとり、聴覚を失ってまで生き永らえることは、その本意ではなかったのだ。

 こうして、自らに残された時間がもはやあまり多くない事を悟りつつあった須賀田は、これまで書きためた作品たちを系統だてて保存する必要性を感じ、大きなトランクに一つづつ、そのフルスコアを演奏会のプログラム等の資料などと共に収める作業に着手した。そして最後に自ら丁寧に書き記した「須賀田礒太郎作品目録」を添え、静かにその蓋を閉じたのである。

 須賀田礒太郎・自筆作品目録

 須賀田がトランクの蓋を閉じる時の思いは、一体、如何ばかりであったろうか。

 これまで様々な賞を獲得した思い出の作品たち・・・そして、まだ実際に演奏されたこともないもの・・・それらすべてに永遠の別れを告げなければならなかった時、須賀田の頬には、恐らく万感の涙が光っていたことだろう。しかし彼は最後まで強く信じていたに違いない。自分の生のあるうちには遂にその演奏を聴けなかった作品も、いつの日にかこのトランクの蓋が開けられ、そして上演される日が来る事を・・・。
 1952年7月5日、須賀田礒太郎は故郷・横浜に二度と戻る事なく、田沼町の自宅で静かにその短すぎる一生を終えた。享年僅か45歳であった。
 現在、須賀田の墓は生地・横浜ではなく、終焉の地・田沼町 (現・佐野市) の須賀田家菩提寺である慶安寺墓地にある。
いま同寺に住職はおらず、2002年に筆者がお参りに訪れた時は、風渡る松の枝の物寂しい音のなか、暗い灰色に覆われた墓石が、まるで50年の長い時を告げるかのように、訪れる人影もなく、ただただひっそりと佇んでいた。
その寂しすぎる風景は筆者の目に、そして心の奥底に今も深く深く焼き付いている。

 作曲家のなかには学閥を利用し高い地位に就き、人脈を駆使して各方面で活躍する人物も多い。
しかし須賀田礒太郎は、音楽を離れた富や名声とは全く無縁、自らの作曲技法を極めるために、ひたすら努力を続けた孤高の芸術家であった。音楽以外の雑事で忙しく立ち回る「付き合い上手」な作曲家の多くがその死後、これといった作品を残せない事が多いのに対し、須賀田はその時間のほとんど全てを、自らの作曲に充てた。その結果、45年という短い生涯の間に、日本作曲界の貴重な文化遺産と言える、30曲にも及ぶ管弦楽作品を初めとした珠玉の作品群が残されたのである。
 黒澤陽子は語る。

 「伯父はずっと肺結核と戦い続けた一生でしたが、その全ての時間を自分の作曲に充てる事が出来ました。
 その意味では、幸せだったのではないでしょうか・・・」

 しかし須賀田の作品が詰められたトランクは、その死後実に47年もの間、日の目を見る事なく田沼町の古びた蔵の片隅で眠り続けるのである。
 彼の限りなく熱い思いと共に・・・


9. 伝わる思い 〜 楽譜発見へ


 須賀田の死後、その名前は音楽界からほぼ完全に忘れ去られた。1994年に刊行された「日本の管弦楽作品表」(楢崎洋子・編著/R日本交響楽振興財団・刊)に、須賀田礒太郎の名前とその主要作品・演奏歴等が、かなり詳しく記載されてはいたが、その楽譜の所在は不明で、僅かに行進曲「新中国」、「台湾舞踏曲」、序曲「万民翼賛」、「サラセン舞曲」などといった数曲の吹奏楽曲がNHKで確認されたのみであった。
 (なお「台湾舞踏曲」については、初演当時のSP録音が残されているということである)
 また1999年7月に音楽の友社から刊行された「日本の作曲・20世紀」なる書物には、日本の作曲家の名前が約150名収録されているが、須賀田礒太郎の名だけは、どこを探しても見当たらない。

 そうした状況の中、須賀田終焉の地・田沼町では、彼が作曲した田沼小学校・中学校の校歌をはじめ、須賀田の作曲した「曼珠沙華」などの合唱作品が、地元の人々によってその後もずっと歌い継がれて来た。1997年 (平成9年)、田沼町女声コーラスの15周年コンサートが開催され、須賀田礒太郎の「ご飯の歌」も再演された。演奏会終了後、田沼町女声コーラスの代表・慶野日出子は、当日会場に来ていた黒澤陽子に、こう問いかけた。

「もっと他に、須賀田先生が作曲された、私たちが歌えるような曲はないでしょうか?」

 当時田沼町吉水には、須賀田の住んでいた父方の住居は既に無く、古びた蔵がひとつポツンと残されているのみであった。慶野は須賀田から直接レッスンを受けた経験を持つ、元田沼小学校教師・尾花陽子から「あの蔵に、先生の譜面が納められているはず」との情報を得ていたのだ。
黒澤はただちに、蔵の中を調査することを約束した。
 そして冒頭で記した通り、須賀田の死から実に47年を経た1999年5月、須賀田の思いが込められたトランクの蓋は須賀田の妹の孫・黒澤雄太の手によって、再び開けられる時を迎えたのである。 

 その入選が決して須賀田の本意ではなかった「ご飯の歌」が田沼町の人々に愛され、歌い継がれて来た事が、結果的に彼の他の作品の再発見に繋がったのだ。黒澤雄太がその全身で感じたという「舞いあがる思い」は、間違いなく須賀田礒太郎の魂のメッセージだったのだろう。
 このように須賀田礒太郎の貴重な文化遺産の発掘は、楽壇の誰によってでもなく、ただただ生前の須賀田を慕い、その音楽を愛する純朴な名もない人々の素朴な思いがきっかけとなったことに、私は素直に感動する。
 そして今田沼町の人々に対して、心から「ありがとう」と言いたいのだ。


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