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建築  雑コラム 15 

Architecture         The s   Column    

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「パラダイムシフト」

21世紀になって早い物でもう13年経つ、世紀の変わり目に世の中は大きく変換すると言われる。

世にいう『パラダイムシフト」である。(2013.8.11)

建築で見てみると今から100年前の1900年にはイギリスでアーツ&クラフト、フランスでアールヌーボー、北欧でナショナルロマンティシズム、

スペインでモデルニズモ,ウイーンでセゼッションが立上りモダニズムへの動きが各地から始まる。

そして、1920年代のル・コルビュジェやミース・ファン・デル・ローエ、フランク・ロイド・ライトの時代に最盛期を迎える事となる

確かに、1900年に変換点があったと捉える事もできる。(2013.8.12)

少し大上段に構えて1800年、1900年、2000年の時点での建築家を介してその当時のパラダイムを模索して、

21世紀の「パラダイムシフト」を私なりに探求してみたい(詳細ではなくざっくりとした掴みで私の独断も多く入るのでご容赦願います)

できれば、世界の出来事と、日本の出来事をパラレルに見てみたいと思っています。(2013.8.13)


1800年(200年前)にはどの様な変化があったのだろうか?

フランスの建築家クロード・ニコラス・ルドゥー(1736-1806)を通してこの時代を考察してみようと思う。(2013.8.14)


クロード・ニコラス・ルドゥー

ルドゥーが少年の1750年ころフランスはルイ15世の王国で 王-貴族-国民 と言う階層で建築家は国王やカトリック教会から

城や教会の建築をしていました。まさに豪華絢爛のバロックが成熟した時代でフランスでは優美さを持たせたロココ調とも呼ばれた時代です。
(2013.8.15)
               
               ベルサイユ宮殿(1661年〜1770年)(2013.8.16)

ルドゥーは「ローマ時代の模索はもはや我々の時代のものではない」と宣言したジャック・フランソア・ブロンデルの美術学校で学んだことが後に大きく影響する。(2013.8.17)

ヨーロッパの手本は18世紀でもギリシャ、ローマを模索しパルテノンの柱のオーダーを学ぶ時代であった。


私がこのコラムで印籠と言っているパルテノンの列柱(2013.8.18)

ルネッサンスもギリシャローマへの回帰であったしヨーロッパが千何百年も経ってもここに帰っていくのはなぜなのだろうか?(2013.8.19)

当時の日本も徳川幕府真っ盛りの時代で、世界と同じ王政の時代は同じとみて良い。

日本には建築家はいないが、大名や大工が、城や茶の湯から発生した茶室や数寄屋の建物もこの時代には多くあった。(2013.8.20)

            
            1753年に再建された高知城(2013.8.21)

江戸の街は高台に大名屋敷が並び谷を下って海岸際には多くの運河がある町人の街で構成されていた。

建築に使われた材料は木と土(漆喰)と瓦で東洋のベニスの様な街と表現する建築家もいる。(2013.8.22)

ルドゥーはイタリアから戻ってきた建築家ルイ・フランソア・トゥルアールの事務所で仕事を始める。

その後、彼は多くの教会、学校、司教館、橋を建て1770年ルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人のためにパヴィリオンを建設し

王室の宮廷建築家となる。(2013.8.23)

ルドゥーの代表作は世界遺産にもなっているフランス東部のアル=ケ=スナンの王立製塩所です。


アル=ケ=スナンの王立製塩所(2013.8.24)

多くの赤字で貧困した王国を立て直すためで殖産する計画が立てられた。(塩は日本でも世界でも専売になっている事が多い)

ここでも王立の製塩工場をルドゥーが担当する事になったのだが、

                    
                    (2013.8.25)

この場所が重要な道路の結節点でもあった関係から都市計画の要素を含んだ円形プランが当初計画されましたが、

実際できたものは半分の半円のものとなりました。(2013.8.26)


(2013.8.27)


                                      
                                      最終プラン(2013.8.28)

また、パリを囲う市壁に入市税をを取る市門の幾つかを担当する事になっていたが一部のみ建設されその途中で大きな出来事に遭遇する。


現存する パリ、ラ・ヴィレットの市門(2013.8.29)

大きな出来事とは「フランス革命」です。

フランス革命は1787年に貴族議会の反抗から始まり、89年に王制が倒れ、1799年のナポレオン・ポナパルドによるクーデターによって帝政となる。

フランス革命の背景としては経済的に疲弊した王政が増税を国民に要求した事から始まったが、結果として近代の幕開けへと発展していくことになる。
(2013.8.30)

「自由・平等・博愛」を基本理念とするこの革命は、ジャン・ジャック・ルソーの「社会契約論」による市民意識が根底にあると思われる。

また1775年〜1783年に行われた、アメリカ独立戦争にも影響を受けています。(2013.8.31)

日本においての王政から帝政への移行は、徳川幕府から明治天皇の時代への移行と言えれます。

明治維新1868年になりますから、フランスと70年の時差となります。

近代へのもう一つ大きなきっかけである「産業革命」はイギリスで1760年から始まり1825年に機械輸出禁止令を解除してから、

フランス、ドイツ、アメリカ、ロシアでも産業革命が伝わる事となります。日本は1880年位からと言われています。

産業革命は化石燃料による機械化によるパラダイム変化と私は定義しています。(2013.9.1)

産業革命を過ぎた国はどの国も人口が急激に増えます。

日本で見てみますと、江戸時代は完全な循環社会でこのシステムでの日本の許容人口は3000万人で明治維新1868年までほぼ一定していました。

(この人口はサスティナブルな循環社会を考える時ひとつの重要な基準になると、38年前に豊橋のお茶の水博士川合健二先生から 聞いていました)

明治末期(1913年)で5000万人そして現在(2013年)は1億2千700万人でこの百年で2.5倍になっています。(2013.9.2)

この人口増加を支えているのは、生産性の向上、海外からの食糧需給と農業への化学肥料による増産、化石燃料にるエネルギー、

そして医療衛生の進歩でこの一つでも崩壊すると維持できなくなります。(2013.9.3)

日本は今後人口が減少していく事が予想されますが、地球レベルでは産業革命が終わったばかりの国やこれからの国があって、

人口は急速に増加していく時期になっています。(2013.9.4)

ルドゥーに戻りまして、王室の宮廷建築家はこの革命で投獄され一時は処刑される寸前で一命を留めますが仕事はなくなります。

その後ルドゥーは彼の理想とする建築構想を版画作品集として出版する、ルドゥーの名を広めたのはむしろこのこの作品集の影響が大きい。
(2013.9.5)


 
  河川管理人の家(2013.9.6)

                           
                           美徳の館(2013.9.7)


農地管理人のための球状の家(2013.9.8)


1800年(200年前) モダニズムへのパラダイムシフトはこの時代に産業革命、市民革命の種がまかれ、動き始めていたことが理解できる。(2013.9.9)

しかし交通に関しては、イギリスで商用で鉄道が使われるのは1825年で交通は馬車と船の時代で鉄道の時代はしばらく後になる。。



次に1900年(100年前)を皆さんもよく知っている建築家ル・コルビュジェ(1887年〜1965年)を通してこの時代を考察したい。

                        
                        ル・コルビュジェ(2013.9.10)

ル・コルビュジェは スイス のラ・ショ・ー・ド・ホンで時計職人の父と音楽教師の母の間に生まれ時計装飾職人にと美術学校へ通うが

美術学校に通う途中で校長に才能を見いだされ建築家ルネ・シャバラと共に在学中の1907年に「ファレ邸」を建築する。(2013.9.11)

ル・コルビュジェは19世紀末期の生まれなので、それ以前の19世紀を概略見てみたい。

産業革命を他の国より50年ほど早く済ませたイギリスは工業化による生産力の増大により発展し経済、軍事共に世界の覇権を握る事となる。

18世紀までは航海で植民地を増やした、スペイン、ポルトガルは19世紀には力を落しアメリカの独立を契機に南米の植民地も独立しだす。
(2013.9.12)

フランスはフランス革命後ナポレオン・ボナパルトの帝政国家となりヨーロッパ各地域に拡大しロシア遠征の失敗で衰退する。

ナポレオン亡き後のヨーロッパの体制をウイーン会議で決めウイーン体制によるヨーロッパの秩序が安定するが、

アフリカ、アジアへ産業革命を終えた各国が進出し、アフリカ、アジアの植民地化が進む。(2013.9.13)

清国の植民地化を憂う日本の幕末の志士たちは、ペリーの来航などで日本にもこの流れが近づいている事に気づき

欧米諸国に対抗できる国家建設へと討幕そして明治維新へと続く事になる。(2013.9.14) 

明治天皇の帝政国家となり産業革命を終えた日本も19世紀の末期に日清戦争1894〜1895)、

日露戦争(1904〜1905)と欧米帝国同様植民地獲得へと乗り出していく。(2013.9.15)

18世紀には王様を頂点とするパラダイムであったが、19世紀は皇帝を頂点とするパラダイムとなり市民意識はあって議会も作られているが

決定権はなかった。(2013.9.16)

唯一独立したての国アメリカは市民から頂点の大統領が選ばれる民主主義のパラダイムで拡張植民地化を嫌ったモンロー主義も加わり、

急速な発展を遂げる事となる。(2013.9.17)

しかし年表を見ると、帝政国家の拡大、植民地化の路線がぶつかり合って起こした戦争の多さに疑問を持つが

20世紀よりはまだましなのかもしれない。(2013.9.18)


日本では、1877年に造家学教授にジョアサイア・コンドルが就任し辰野金吾、 曽禰達蔵、片山東熊など日本の建築家の礎を輩出する。

          
          ジョアサイア・コンドル

1896年に辰野金吾が日本銀行本店を建築している。この日本銀行本店上空から見ると円の字になっているのは辰野金吾のお遊び?

私たち日本の建築家は約130年前位からスタートしたと思われる。(2013.9.19)

              
辰野金吾                             円の字の日本銀行本店(辰野金吾設計)(2013.9.20)



 1914年竣工当時の東京駅(辰野金吾設計)(2013.9.21)

最初にも書いたように1900年前後にはイギリスでアーツ&クラフト、フランスでアールヌーボー、北欧でナショナルロマンティシズム、

スペインでモデルニズモ,ウイーンでセゼッションが立上りモダニズムへの動きが各地から始まる。あたかもそれは産業革命、市民革命の種が

各地で春を迎えるがごとく新しい時代に向けた様相を察する事が出来る。(2013.9.22)

産業革命で機械化され生産性の上がった国は国力を伸ばし、人口も増え交通も鉄道が走り、

以前の中世の世界に比べると比較にならないほどの発展を感じていた時代だと思われる。(2013.9.23)

ル・コルビュジェに戻って、1908年にコルビュジェはパリに行き鉄筋コンクリートの生みの親と言われる、オーギュスト・ペレの事務所で働く

                   
オーギュスト・ペレ                               パリ郊外のランシーの教会  オーギュストペレ(2013.9.24)

建築の基礎を学ぶ上でペレの事務所で働けたことは大きくコルビュジェに影響を与えたと思われる。

またオーギュスト・ペレからピカソやブラックそして画家、評論家として共に「ピュリスム」の道を歩く事になる、アメディエ・オザンファンも紹介されている。

またその後1910年にはミース・ファン・デル・ローエや、ワルター・グロピウスも一時期働いたドイツのベーター・ベーレンスの事務所にも在籍する。
(2013.9.25)

        
ベーター・ベーレンス                               AEGタービン工場 ベーター・ベーレンス(2013.9.26)

これだけ有名な事務所に二つも短期間で行ける事からして、ル・コルビュジェの才能を推し計る事が出来る。(2013.9.27)

1911年から半年間コルビュジェは、「東方への旅」に出る、この旅はベルリンから東欧、ギリシャ、トルコ、イタリアを巡る旅で、

地中海の白くフラットな集落のイメージとパルテノン神殿はコルビュジェに大きな影響を与えその影響はサボア邸にまで深く繋がる「白の時代」といわれる。
また、この旅の途中ウイーンでオットワーグナーや、アドルフロースの影響を受けている可能性が高いと私は見ています。(2013.9.28)

(オットワーグナーの著書「近代建築」中央公論美術出版は1900年当時の曲がり角の様子が良く分かる本です)

1914年 「東方への旅」で通ったであろうサラエボでオーストリア=ハンガリー帝国の国王が暗殺されるサラエボ事件をきっかけに第一次世界大戦がはじまる。

しばらく故郷スイスで構想を練り、1914年にドミノシステムを発表し、1917年にパリにもどり、アメディエ・オザファンとともに

美術雑誌「レスプリ・ヌーヴォー」を創刊しル・コルビュジェというペンネームを初めて使う。(2013.9.29)

 
(2013.9.30)

この「レスプリ・ヌーヴォー」 に掲載した「建築をめざして」に書かれた

「住宅は住むための機械である」は有名な言葉である。(2013.10.1)

21世紀の私たちの機械のイメージと、コルビュジェの時代の機械のイメージとは大きく違うと私は思いますので。少し補足します。

産業革命を終えて機械化され生産が向上した国は、経済が発展し物質的にも豊かになって人口も増えています。(2013.10.2)

その当時機械化は無限の発展の象徴であって、希望の源でもあった様に感じます。この感覚は日本の明治時代の人たちも持っていた様な気がします。

1900年の時代の建築家はギリシャ、ローマのオーダーや装飾また過去の様式より、全く装飾が無く、

機能に素直である機械に美を見ていた と思われます。(2013.10.3)

そしてこの時代の特徴として「機械化の延長に無限の成長と発展を信じていた」様に思います。

21世紀の私達のコンピューターに近い言葉の感覚で機械を見ていた様な気がします。(2013.10.4)

またその発展のためには「理想とするシステム」で世界中の建築が「均質に」建てられることを夢見ていたと思います。


サヴォア邸(2013.10.5)

ル・コルビュジェは近代建築の五原則で「 1.ピロティー、2.屋上庭園、3.自由な平面、4.水平連続窓、5.自由な立面」を提唱しました。

これを実証するためにラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸1924年からサヴォア邸1931年までの「白の時代」があったように私は見ます。(2013.10.6)

                                                                                 
                                                                                  ラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸

この白の時代の住宅は、憧れの地中海住宅で降水量の少ない日差しの強い地中海の気候を反映した住宅を下敷きにしていますが、

フランスは地中海より暗く、寒い気候の地域です。(2013.10.7)

フラットルーフと2.屋上庭園を実現するには、雨漏りのリスクを乗り越える必要があります。

そのためにアスファルト防水の技術が必要でしたが、多くのコルビュジェの住宅では雨漏りが問題になっています。(2013.10.8)

.1.ピロティー、3.自由な平面、4.水平連続窓、5.自由な立面を実現するには、組積造からラーメン構造すなわちドミノシステムが必要でした。

この構造システムがコルビュジェのデザインを支えています。(2013.10.9)

また、冬は寒い! これを乗り越えるためにエアコンが作られ「世界中エアコンで均質な環境になる!」と近代建築家は錯覚していたように思います。

またこの「白の時代」の妄想は現在の日本の若い建築家にもはびこっていて、

降水量が10倍ほどあり、高温多湿の日本で、フラットルーフの白いキューブの家を作ってかっこいいと思っている若い建築家の流行は、

私としては信じられない現象で「新たな白い住宅の 印籠!」とも思えます。(2013.10.10)

白の時代の建物は、真似し易く、写真写りのみで評価される最近の建築雑誌に載り易い。

デザイン才能もなく、材料も温湿度も生活も知らない建築家が評価される様では、建築は文化ではなく流行になってしまいます。



白くて通風の窓のない家 最近の若い建築家のデザイン(2013.10.11)

それに気が付いた、ル・コルビュジェは1931年以降サヴォア邸の様な建築はしなくなり、「白の時代」は終わり、

均質ではない、地域の気候に対応したブリーズソレイユや、インドチャンディガールの様な建築を提案するようになります。


日光を調整するブリーズソレイユと、風通しを考えられた、チャンディガール裁判所(2013.10.12)

コルビュジェは7年で気が付いたのに、コルビュジェの美意識を絶対化し過ぎた人は、疑問ももたず、

90年経った現在、真逆の気候の土地で平気でデザインしている。(2013.10.13)

前の世代のデザインを正しく評価し、この中に間違いがあると思う人が次の時代を変えていけると私は思います。

コルビュジェが最後に辿り着いたのはロンシャンの教会で近代建築の五原則はすでになく、

ドミノシステムでもない組積造に近い壁式構造であった事を忘れてはいけない。(2013.10.14)

         
         ロンシャンの教会(2013.10.15)

モダニズム(近代)は産業革命とフランス革命がきっかけになっていると前に書きましたが、フランス革命の「自由、平等、博愛」の精神はその後

自由 → アメリカを中心とする自由主義の世界

平等 → ソ連を中心とする共産主義の世界

博愛   この精神を根底とする世界はみうけられない。(2013.10.16)

へと発展するが、平等を重視した共産主義国家はソ連のスターリン、中国の毛沢東、北朝鮮の金日成、キューバのカストロと、むしろ

平等より、帝国に近い権力の集中体制へと変化していく、歴史の流れは不思議と同じ様に流れて、いったんそこを通らないといけないのかも知れない。
(2013.10.17)

この時代の最後に悲しむべき第二次世界大戦が起こります。この大戦の結果として、日本もドイツも、また戦勝国でも

帝国は終焉し民主国家となり、多くの植民地は独立していくようになったのは事実である。(2013.10.18)


2000年の節目は、皆さんは生きてみえたでしょうから、自分の目を通して考えてください。

ですからここからは、私の観てきた時代と、これからへの私なりの解釈を書きますが、あくまでも偏った主観として観て頂いた方が良いと思います。

私は1954年生まれですから、第二次大戦後 物不足の戦後、1950年〜1953年の朝鮮戦争、の後の年に生まれました。

戦後の私の経験をお話する前に、辰野金吾からの日本の建築家の流れを把握してみたいと思います。(2013.10.19)


明治時代は西洋の建築を日本に根付かせ、いかに近代国家になるかと急いだ時代でした。

建築家の組織として明治19年(1886)にイギリスのRIBA(王立建築家協会)を手本とした造家学会が設立されるが、

その後構造学者佐野利器の技術者、学者としての方向性が強くなり、当初の建築家ではなく技術、学会的な組織になって

反発として、建築士会や関西建築協会など別組織を生む結果となる。(2013.10.20)

現在でも大学の建築科が工学部に所属し、建築士法が技術者としての資格で、

西洋や、世界で言われる、「建築家」としての資格は現在もない日本の状況は、佐野利器の影響力が強すぎた結果のひずみとも思えます。

                  
                  構造の父 佐野利器(1880〜1956)(2013.10.21)

明治の時期は県庁舎、裁判所、鉄道駅舎、博物館、銀行などを様式建築で建てられていた、その多くに印籠の柱を見受けられる。(2013.10.22)

西洋建築を日本に根付かせる時期の建築家として、関西の武田五一、名古屋の鈴木禎次はその地域に大きな影響を残している。

                    
京大建築学科を作った武田五一(1872〜1938)         名古屋で活躍した鈴木禎次(1870〜1941)(2013.10.23)



武田五一 山口県庁舎

                     
                      鈴木禎次 名古屋銀行本店(現中央信託銀行名古屋支店)(2013.10.24)

明治時代は建築のみでなく、日本全体が西洋に追いつきたいと願い、産業革命を伴ってひたすら走った時代だと思う。

大正時代になって初めて西洋の帝国諸国の一員として第一次世界大戦の末席に着く状況に達したが、その後帝国として拡大化していくことになる。

大正9年(1920)にウイーンのオットワーグナーらの分離派に影響され、様式建築からの分離を誓った「分離派建築会」(1920〜1928)が発足する。

石本喜久治、堀口捨巳、山田守らを中心とし後に蔵田周忠、山口文象も加わっている。

これが日本においてのモダニズムの出発点と思われる。
(2013.10.25)

                 
堀口捨巳(1895〜1984)                           若狭邸(1939)(2013.10.26)


紫烟荘(1926)(2013.10.27)

堀口は戦時体制に組するのを嫌い、日本の数寄屋建築に傾倒していき、戦後も数寄屋建築を中心とした作品を残す事となる。(2013.10.28)

大正時代で特記しておく建築はアメリカの建築家 フランク・ロイド・ライトによる大正12年(1923)9月1日に竣工した帝国ホテルである。

落成式の日の準備のさなかに関東大震災に合う事になるが、大きな被害もなくライトの名声を広める事となった。(2013.10.29)


           
フランク・ロイド・ライト(1867〜1959)                        帝国ホテル 1923年(大正12年)

関東大震災は日本の建築を決める建築基準法の根幹となっている。耐震性は関東大震災同等の地震に対して持ちこたえれるように考えられ、

また、大火災の経験から耐火性を重視した法令になっている。(2013.10.30)


堀口捨巳とほぼ同期に村野藤吾(1891〜1984)、吉田五十八(1894〜1974)と数寄屋建築を近代化した巨匠が続く。

村野藤吾は数寄屋建築のみでなく晩年まであらゆる建築を村野独特のモダニズムの成熟度で傑作を創り続けた。

                
村野藤吾                                  吉田五十八(2013.10.31)

           
村野藤吾 宇部市民会館  昭和12年(1937)                 吉田五十八 小林古径画室 昭和9年(1934)(2013.11.1)

数寄屋建築の近代化も日本のモダニズムの一つとして世界に発信しても恥ずかしくない文化だと私は思います。

外国の友人や建築家に明治の様式の不明瞭な洋館を見せるより、日本の伝統文化の建築である神社仏閣、

そして数寄屋建築を見せたほうが私は良いと思います。(2013.11.2)

この三名の建築家の数寄屋は日本の数寄屋にモダニズムを融合させた作品として世界に評価されるべきと思います。

昭和になって前川国男(1905〜1986)は昭和5年(1930)、坂倉順三(1904〜1968)は昭和11年(1936)にル・コルビュジェの事務所で学び

帰国する。(2013.11.3)

          
前川国男                               坂倉順三(2013.11.4)

日本もいよいよ本格的なモダニズムの時代へと思われたが、戦争へと世の中は流れ、前川をはじめ丹下健三も戦時体制の一端へと組み込まれていく。

本格的なモダニズム建築は戦後へと延ばされる事になった。(2013.11.5)

第二次世界大戦以前の1900年代の世界の建築では、1919年にワルター・グロピウスが創設したバウハウス(モダニズムの美術と建築の学校)

がドイツ・ワイマールに開校した。

          
ワルター・グロピウス(1883〜1969)               バウハウス・デッサウ(2013.11.6)

バウハウスはワイマールからデッサウ、ベルリンへと移転し1933年にナチスにより閉校された。

校長はグロピウスからミース・ファン・デル・ローエと引き継がれている。


ミース・ファン・デル・ローエ((1886〜1969)(2013.11.7)

第二次大戦でグロピウスはイギリスに亡命しその後アメリカに移り、ハーバード大学で教えI・M・ペイやフィリップ・ジョンソンなどを育てた。

ミース・ファン・デル・ローエもアメリカに亡命しモダニズム建築の代表である、シーグラムビルやファンファース邸を残す事になる。

もう一つ重要な事項はワルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジェらが中心となってモダニズムを国際的に推進する機関

CIAM(近代建築国際会議)が1928年に開催された事である。(2013.11.8)

第二次世界大戦以前の交通は鉄道が整備されつつあったっが、長距離国際間は船が主で、第一次世界大戦から第二次世界大戦間は欧州間は

飛行船も使われた。(2013.11.9)

移動に関する時間感覚は今と違って、現在日本と欧州は十数時間で行けるが、その当時は1か月以上かかっていたので、

戦前の日本の建築家で欧州を見た建築家は数十人しかいなかった状態で西洋建築を真似ている状態であった。

飛行機が旅客機として使われだしたのは第二次世界大戦以後1950年以降となる。(2013.11.10)

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