建築 雑コラム 27
Architecture The s Column
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2016年 明けましておめでとうございます。
ル・コルビュジェ
今年のコラムは、昨年5月25日〜6月2日までフランスに行ってきましたので、
ル・コルビュジェのパリ以外にある作品を中心に観てきた作品と、以前観たパリにある作品、及びインドで観た作品もあわせて
ル・コルビュジェに関するコラムから始めたいと思います。
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ル・コルビュジェ (1887年10月6日((明治20年)〜1965年8月27日(昭和40年))(2016.1.1)
私が東京で勤めたLAND建築事務所の三橋満さんは、富永譲さんと菊竹清訓建築設計事務所で同期に勤めてみえ
一時期一緒に事務所をされていました。
富永譲著「ル・コルビュジェ 幾何学と人間の尺度」丸善株式会社 はコルビュジェを知る必見の本だと思います。
このコラムも多くはこの本から参考にさせて頂きました。(2016.1.2)
ル・コルビュジェは1887年10月6日(明治20年)にスイス ラ・ショー・ド・フォンで生まれたスイス人です。
(日本人の時代感覚で捉えれる様にこのコラムに関しては日本の年号も付けてみます、何と私の祖父(明治29年生まれ)より年上)
ル・コルビュジェの名は後に出版するデザイン雑誌「レスプリ・ヌーヴォ」でのペンネームで本名はシャルル・エドワール・ジャン・ヌレです。
近代建築の他の巨匠と年代の比較をすると年代順に
アントニオ・ガウディーは1852年生まれで 35歳年上になります。(江戸時代嘉永5年)
フランク・ロイド・ライトは1867年生まれで 20歳年上になります。(明治元年の1年前)
ワルター・グロピュースは1883年生まれで ほぼ同年代4歳年上(明治16年)
ミース・ファン・デル・ローエは1886年生まれで ほぼ同年代1歳年上(明治19年)
となります。 日本の建築家でル・コルビュジェと同じ年に生まれたのが東京タワーの構造で有名な内藤多仲で
A・レーモンドが1888年(明治21年)生まれ、村野藤吾が1891年(明治24年)生まれです。
ル・コルビュジェ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ、ワルター・グロピウスは4大巨匠と言われますが
ライトと他の三人とは親子ほどの差があります、そう見ていくと装飾部分の取り扱いに時代を感じる事が出来ますが、
ライトの偉大さも感じる事も出来ます。
ちなみに北欧の建築家
ラグナール・エストベリは1866年(慶応2年)生まれ、グンナール・アスプルンドは1885年(明治18年)生まれ、
アルバー・アアルトは1898年(明治31年)生まれです。(2016.1.3)
ル・コルビュジェの父親は時計職人、母親はピアノ教師で、父親の職を継ぐように時計職人を養成する地元の美術学校に入ったのですが、
そこで若き教師でアールヌーボーを好きなレ・プラトニエに出会います。
ル・コルビュジェはレ・プラトニエに「時計職人よりむしろ建築家の才能がある」と言われ、18歳で「ファレ邸」の設計をする、
1908年(明治41年)、21歳の時にパリのオーギュスト・ペレの事務所で16ヶ月修業する。
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オーギュスト・ペレ(1874年2月12日(明治7年)〜1954年2月25日(昭和29年)(なんと、私の誕生日に亡くなっている))
(コルビュジェより13歳年上、ライトより7歳年下) (2016.1.4)
オーギュスト・ペレは鉄筋コンクリートの生みの親で「コンクリートの父」と呼ばれている。施工会社も持っていた。
ル・コルビュジェの作品もコンクリートの作品が主体となっているのも納得がいく。
1903年(明治36年)に建てられたフランクリン街のアパートは鉄筋コンクリートの最初の建物で
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フランクリン街のアパート(メンテナンス工事中)(地下鉄9号線Trocadero駅)(2016.1.5)
平坦な街区に凹凸をつけ今でも古さを感じない建物です。
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屋上庭園もありそうで、ここにもコルビュジェにつながる物がありそう。(2016.1.6)
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スイス学生会館窓廻り
ディテールは多少装飾もあるがシンプルでシャッターや、日よけなどの納まりはコルビュジェのスイス学生会館の納まりにを思い出させる。(2016.1.7)
しかしこの建物はル・コルビュジェがパリに来る5年前の1903年(明治36年)に建てられた建物です。
(現在も使われていて日本の明治建築と比較すると格段に斬新さがわかる)
続いてオーギュスト・ペレの1913年(大正2年)のシャンゼリゼ劇場を紹介します。
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シャンゼリゼ劇場(地下鉄9号線Trocadero駅)(2016.1.8)
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シンプルな窓廻り 側面打ち放しの柱梁とタイルの納まり
モダニズムの息吹をいたる所に感じる建物で、側面の打ち放しの柱とタイルの納め方はレーモンドの南山大学、
村野藤吾の横浜市庁舎、早稲田文学部の建物に大きな影響を与えていることが分かります。
内部も見たかったのですが、見れませんでした、今度オペラでも見に行きたいと思っています。(2016.1.9)
ペレでもう一つ観て頂きたい建物はパリの郊外ル・ランシーに建つノートルダム大聖堂です。
(RER E2線 Le Raincy Villemomble Monthrmeil駅)
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ル・ランシー ノートルダム大聖堂(1923年)(大正12年)(2016.1.10)
世界でコンクリート打ち放し仕上げの最初の建物だろうと建築家藤森照信は言っていました。
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側面ステンドグラスの納まり(2016.1.11)
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内部も柱、天井共コンクリート打ち放しで92年経っていても古さを感じません。
柱からキャンティーで持出された外壁は60mm程の細いコンクリート打ち放し枠にステンドガラスがはめ込まれています。
この建物はパリに行かれたら必ず見て頂きたい建物の一つと思います。(2016.1.12)
アントニン・レーモンドはオーギュスト・ペレから大きな影響を得たそうで、東京女子大学の礼拝堂はこの大聖堂ととても良く似ています。
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東京女子大 聖堂
アントニン・レーモンドはフランク・ロイド・ライトの弟子ですが、作品をよく見ていくとむしろオーギュスト・ペレに近いように思われます。
ル・コルビュジェはオーギュスト・ペレからピカソやブラックそして画家、評論家として共に「ピュリスム」の道を歩く事になる、
アメディエ・オザンファンも紹介されている。 オーギュスト・ペレとの出会いがル・コルビュジェの基礎をきずいたのは間違いない。(2016.1.13)
ル・コルビュジェはその後、1910年(明治43年)(コルビュジェ23歳)にドイツのペーター・ベーレンスの事務所で5か月働く。
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ペーター・ベーレンス(1868年(明治元年〜1940年(昭和15年))(2016.1.14)
ペーター・ベーレンスの事務所にはミース・ファン・デル・ローエや、ワルター・グロピウスも一時期働いていて近代建築の源流と言えるかもしれない。
源流をもっとたどればこのペーター・ベーレンスに建築を教えたのがウイーン分離派館を設計したヨセフ・マリア・オリブリヒで
彼の師匠がオット・ワーグナーとなって本当の源流はオット・ワーグナーとなるのかも知れない。
(コラム20,21の「ウイーンの建築」を参照してください)
(2016.1.15)
ベーレンスの事務所には1年ほどしかいなかった、その後1911年(明治44年)(コルビュジェ24歳)に有名な「東方への旅」に出かける。
ベルリンからウイーンへ、ウイーンではオットワーグナーやアドルフ・ロース、オルブリッヒの建築を観ているに違いない、
(この旅以前にウイーンには4か月滞在した事もある)
次にブカレスト、ティルノボ、そしてイスタンブール(コンスタンチノーブル)には2か月滞在し
ミマール・スィナン(シナン)の建築も見ている事でしょう。
また幾何学模様のイスラム建築も見ていると思います。
そして、ギリシアのアトスからエーゲ海の島を巡って白く屋根のフラットな民家群に出会う。
アテネではパルテノン神殿に強く影響され、イタリア半島に渡りポンペイ、ローマではパンティオンにも感銘を受けている。
フィレンツエではサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂やルネッサンス建築も見ている事だろう。そして故郷のスイス ラ・ショー・ドフォンに帰っている。
この旅で書いた手帳は死ぬまで誰にも見せなかったそうで、歴史の積み重なった地域を巡る旅は富永譲さんの話では「コルビュジェはこの旅で
昔の人が残した「知恵の砂金」を掘り起し手帳に書き写した、そしてそれに現在の精神を与え、展開しようとした」と言われています。(2016.1.16)
「東方への旅」から帰って、恩師レ・プラトニエの要請により、ラ・ショー・ドフォンの母校の美術学校で新設学科創設のため母校で教鞭する。
1912年に初めての設計事務所を持ち、ラ・ショードフォンからパリに永住する為に移る1917年(大正6年)30歳までにこの地で7軒の設計をしている。
その当時ヨーロッパは1914年(大正3年)〜1918年(大正7年)にかけて第一次世界大戦の最中で
1914年(大正3年)(27歳)発表したメゾン・ドミノは復興住宅を目的に発表された。
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(2013.1.17)
1920年(大正9年)(33歳)にアメディエ・オザンファンと共にデザイン雑誌「レスプリ・ヌーヴォー」を創刊し、ペンネームとしてル・コルビュジェ(Le Corbusier)
を使うようになる。
また1922年(大正11年)に(35歳)オーギュストペレの事務所で働いていた、従兄弟のピエール・ジャンヌレと共に事務所をかまえた。
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レスプリ・ヌーボー(2016.1.18)
1924年(大正13年)(37歳)にラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸が完成する。ラウル・ラ・ロッシュは銀行家でピカソやブラックなどの絵の蒐集家でも有名で絵を通して
知り合った、またアルベール・ジャンヌレはル・コルビュジェの音楽家の兄でこの住宅は手前の方がジャンヌレ邸で奥の方がラ・ロッシュ邸となっている
二軒繋がった建物です。
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ラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸(メトロ、9番線Jasmin駅)(8-10,square du Docteur Blanche 75016,Paris)(2016.1.19)
現在ジャンヌレ邸は
コルビュジェ財団の事務所になっていて中は見れないが、(図書館部分は利用できるが手続きが必要)
ラ・ロッシュ邸の方は見学ができる(月13:30〜18:00、火-木10:00〜12:3013:30〜18:00、金0:00〜12:3013:30〜17:00、土日祝日休み)
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ジャンヌレ邸(2016.1.20)
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ラ・ロッシュ邸(2016.1.21)
ラ・ロッシュ邸のアトリエは曲線となった壁面のアトリエがやや低めのピロティーで浮いている。
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入口の門扉(ここを入って右の扉から入る)(2016.1.22)
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吹き抜けの玄関(2016.1.23)
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玄関部上部から(2016.1.24)
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アトリエ スロープ(2016.1.25)
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アトリエ スロープ上部から(2016.1.26)
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屋上庭園から街並みを観る
この住宅は5原則に従って建てられています、スイス ラショードフォンに建てられた屋根付の建物からかなり変化していて、むしろ白の時代の完成形に
近い充実した建築です。今ではパリでのル・コルビュジェ巡礼コース第一の場所です。(2016.1.27)
1929年(昭和4年)(42歳) プラネクス邸 (メトロ7番Porte d'lvry駅)(24bis,boulevard Massena 75013,Paris)
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プラネクス邸(2016.1.28)
左右対称のモダニズム建築ですが、かなり老朽化していました。使われていないのかも知れません。
ラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸やサヴォア邸の様にメンテランスされている建物は良いのですが、80年近く経っていれば老朽化しますが、寂しい雰囲気の漂う
景色で近代建築の宿命も感じました。
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寂しい雰囲気のプラネクス邸(2016.1.29)
ル・コルビュジェの事務所で勤めた日本の建築家は前川国男、坂倉順三、吉坂隆正の三人が有名です。
前川国男がル・コルビュジェの事務所に居たのは1928年(昭和3年)〜1930(昭和5年)年のこの時期になり、
前川国男と入れ違う様に坂倉順三が事務所に来ます。
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前川国男(1905年(明治38年)〜1986年(昭和61年))(2016.1.30)
坂倉順三は1930年(昭和5年)〜1936年(昭和11年)勤め、
1936年(昭和11年)〜1939年(昭和14年)はパリ万博の日本館建設でパリに行き同時にル・コルビュジェの手伝いをしている。
この後紹介するサヴォア邸、スイス学生会館、ナンジェセール・エ・コリ通のアパート(コルビュジェのアトリエ兼自邸)の時期を経験していて
白の時代の最盛期を9年間と長い間、坂倉順三は経験した建築家で
白の時代の初期の理論構築の時代に2年間を経験した前川国男と
白の時代以降の時期の2年間、マルセイユのユニティや、チャンディガールを経験している吉坂隆正とそれぞれの時代が違って
その時代に合わさった影響を受けて帰国している。
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坂倉順三(1901年(明治34年)〜1969年(昭和44年))(2016.1.31)
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吉坂隆正(1917年(大正6年)〜1980年(昭和55年))
この三人の作品にはその影響がはっきりと読み取れる所がまた大変興味深い所です。
また、坂倉順三は68歳で、吉坂隆正は63歳の若さで亡くなった事は、日本建築界にとってとても残念なことです。(2016.2.1)
1931年(昭和6年)(44歳)
サヴォア邸 (RER A線 Poissy行 Poissy駅 徒歩約25分)(82,rue de Villers,78300,Poissy)
ル・コルビュジェの住宅で一番有名な住宅が このサヴォア邸で、今ではGoogleマップでサヴォア邸と検索するだけで位置が分かるほど有名になった。
パリの街からRER A線 Poissy行に乗って1時間弱で終点のPoissy駅(ポアシー駅)に着く、駅からはバスもあるが徒歩25分程度で到着できる。
フランス、パリの郊外住宅街の様子を見るには良い散歩道です。
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サヴォア邸までの住宅街 フェンスもあって意外に日本の住宅街と共通点も多い サヴォア邸入口の案内
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入口すぐ右にある管理人棟の建物(2016.2.2)
サヴォア邸は高等学校の敷地の隣にある林の中にある、入口からは樹木のアプローチを通って全景が見えてくる。
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アプローチから見えるサヴォア邸(2016.2.3)
ぐるっと外を回って眺めて観たくなる。
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正面より(2016.2.4)
右回りで観てみます。
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正面右のピロティーの下を車が通れる様になって居ます。(2016.2.5)
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ピロティー、宙に浮いた白いBOX、横長の連窓 五原則そのままの建物です。(2016.2.6)
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裏がUの字のアプローチになっていて裏正面に玄関があります。(2016.2.7)
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こちらの面からは2階の中庭が見えます。
現在はコルビュジェ財団が管理していてメンテランスも良くきれいに管理されているが、実はこの建物実際に使われたのは5年ほどであまり使われていない、
その後はナチスの軍部の兵器庫として使われ、荒れ果てた状態であった時期が長い、
この建物は世界中からの見学者が訪れる現在の状態が一番ベストな状態なのかもしれない。(2016.2.8)
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裏の玄関ピロティー部 ガラスのスクリーン(2016.2.9)
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ガラススクリーン内側の納まり(2016.2.10)
玄関を入ると真正面にこの建物の中心にあるスロープが見える。
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スロープ 横から見たスロープ(2016.2.11)
1階は現在事務スペースで使われています。上下の移動は中央のスロープと左にある階段と両方使える。
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階段(2016.2.12)
スロープで二階に上がると正面にリビングに入るドアがある
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リビング入り口ドア(リビング側から)(2016.2.13)
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リビング(2016.2.14)
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リビングから中庭を見る(2016.2.15)
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中庭からリビング側を見る(2016.2.16)
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二階中庭から屋上へとスロープが続く屋上には塀に囲われた屋上庭園がある。(2016.2.17)
その他の部屋でリビングと繋がるキッチン
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キッチン(2016.2.18)
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バスルーム(2016.2.19)
ル・コルビュジェの住宅を勉強するには 富永譲著「ル・コルビュジェ 建築の詩」 鹿島出版 をお勧めします。
次に1932年(昭和7年) (45歳) スイス学生会館 (RER B線 Cite Universitaire駅)(7,boulevard Jorudan 75014 Paris)
広大な国際大学都市の中にある学生会館の一つで近くに1959年(昭和34年)(72歳)に建てられたブラジル学生会館もある。
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スイス学生会館 この面の写真が多くてこのイメージが強いのですが、この裏側は(2016.2.20)
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この様に違ったファサードです。(2016.2.21)
しかしこの建物の私の好きな所はは
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BOXが曲線の台(柱)に乗ったようなこのピロティー部分です。
この建物は最初の写真のファサードの様にメカニックでジャン・プルーベぽい部分、つるっとしているが白くないアイボリーがかった目地の入った壁面
真四角のポツ窓、 両端を跳ね上げた階段室、石の外壁の低層部と、白の時代とかなり違う要素がいっぱい含まれている建物です。
白の時代はサヴォア邸で終わって一年後のこの建物は、確実に変わりつつあることがこの建物で分かる重要な変換点の建物です。
ピカソが時代によって表現が変わっていく様にル・コルビュジェも大きく表現の変わっていく建築家でした。
五原則に従った白いBOXの白の時代は1924年(大正13年)のラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸から
1931年(昭和6年)のサヴォア邸までのわずか7年ですが、
日本にはこの白の時代が好きな建築家が多く未だにこのコピーを続けている建築家も多く見かけます。
スイス学生会館はターニングポイントになった建物で、もう少し研究されてもよいと思います。
ル・コルビュジェの生涯約70件の建物の内、スイスの住宅が8軒、母の家からサヴォア邸までの白の時代が21軒,スイス学生会館以降が42軒
となっている(2016.2.22)
1934年(昭和9年) (47歳)
ナンジェセール・エ・コリ通りのアパート(自邸&アトリエ)(メトロ10番Porte d'Auteull駅)
(24,rue Nungesser-et-Coli,75016,Paris)
このアパートはル・コルビュジェが設計して、7,8階は自邸&アトリエとして1934年(昭和9年)から亡くなる1965年(昭和40年)まで
妻イヴォンヌ夫人と生活した建物です。
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ナンジェセール・エ・コリ通りのアパート
ガラスブロックが使ってあるファサードはル・コルビュジェと言うよりは、ピエール・シャロー的な建物であるが、1934年(昭和9年)ではかなり斬新だったと
思われる。(2016.2.23)
公開見学は土曜日10時〜17時のみで予約不要、一階の入り口のインターホンを押し、見学希望を伝えるとドアの鍵が開き、
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入口にあるル・コルビュジェのプレート 左上のLe Corbusierのボタンを押すと話が出来、入口の鍵が開く
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エレベーターで6階に行き階段で7階に上がると 入口のベルがある。(2016.2.24)
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アトリエ(石積や、レンガ積など試行錯誤しています。 壁のペンキの色も試行錯誤の後がありました、
やはり材質を否定した白の時代は終わっていた事が良く分かります)(2016.2.25)
ル・コルビュジェは 午前中をこのアトリエで絵を書いて凄し、午後に事務所に出かけていたそうです。
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アトリエの南並びにスケッチや書き物、読書をしていた備え付けの机がある(2016.2.26)
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リビング
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食堂(2016.2.27)
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キッチン
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バスルーム(2016.2.28)
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階段を上ると
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ペントハウスにゲストルームと屋上庭園がある(2016.2.29)
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ゲストルームのベット
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屋上庭園とトップライト(2016.3.1)
この建物の前に現在建設中の
ルディ・リッチオッティ設計の
サッカースタジアムが出来つつあった。
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ルディ・リッチオッテイのサッカースタジアム
1936年(49歳)〜1947(60歳)年まで期間は第二次大戦もあって作品は作られていない、人生で一番動ける時期に世界大戦があった事は
ル・コルビュジェにとってはとても不幸な事であったと思われる。(2016.3.2)
1947年 (60歳) 国連本部ビル案
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国連ビル
国連ビルは各戦勝国代表の建築家の共同チームで進められ、当初ル・コルビュジェとオスカー・ニーマイヤの共同案で決定したが、
アメリカ代表で計画責任者を担当したウォレンス・ハリソンが実施した現在の建物は、ル・コルビュジェとオスカー・ニーマイヤの共同案から
ピロティーも日光調節のブリーズソレイユも採用せず、単純なガラスの高層棟になってしまった、
低層部の斜めの屋根はスイス学生会館の低層部や、ニーマイヤーの建物に共通する部分が残っている部分と思われる。(2016.3.3)
1952年 (65歳)
マルセイユ ユニテ・ダビタシオン (280,boulevard Michelet,13008,Marseille)
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マルセイユ ユニテ・ダビタシオン (メトロ Rond-Point du Prado駅下車 #22番のバスにてLe Colbusierバス停下車)(2016.3.4)
すでにCIAMなどで有名になっていたル・コルビュジェですが、コンペには注目はされるが縁が無くむしろほとんどが個人住宅が中心であった、
このマルセイユ ユニテにて初めてフランス政府からの依頼で大規模な集合住宅を設計する事になる。
この建物は単なる集合住宅ではなくタイプの違う23タイプの住宅ユニットと店舗、郵便局、屋上に保育園、体育館、プールがあり、
3,4階には
ホテル ル・コルビュジェがある。
ホテル予約
集合住宅と言うよりはむしろ一つの街を建物にしたような建物です。
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屋上部分(2016.3.5)
建物のすべてのスケールがモジュールに従って造られていて、また、ブリーズソレイユの住宅部分と縦ルーバーの店舗部分がエレベーションから分かる。
1階はピロティーになっていて主に駐輪場として使われていた。
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開放的なピロティー
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住居フロアー中央通路(2016.3.6)
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ホテル 受付フロント
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ホテル 部屋からバルコニーを見る(2016.3.7)
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屋上プール 幼稚園
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地中海とアルプスが見える屋上 奥は体育館(2016.3.8)
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7,8階の店舗部分吹抜けの通路と店舗
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ホテル レストランのバルコニーテーブル(2016.3.9)
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